2006年6月 4日 (日)

勝利を標榜するエス、あるいは「アメリカの夜」

だれかとジャンケンをして、わざと後だしで負けようとするとうまく反応しないらしい。脳年齢が衰えてると反応が遅いのだとか。それで、実際にやってみたのたけど、たしかに普段は負けるためのジャンケンというのをしてないからか、負ける為のパーも、グーも、チョキもスムーズには出てこない。それで、念のために勝つ為だったらどうか?を試してみたけど、やっぱ勝つ為ならとてもスムーズに出てくるのだ。

はっきりいって「脳年齢」になんて全然興味がない(っていうか脳以外も大人になりたいと思う)のだけれど、普段から「勝ちには興味がない」とか公言してしまっている手前、なんともバツの悪い気持ちに。そういえば、生まれてこのかた、いろーんなことをジャンケンで決めてきたなぁということに思い当たる。

それにしても、少年ジャンプに反動形成されて、ずいぶん前に勝ちとか負けに興味がなくなってしまったというのに、反射的には「勝利」を求めるエスの存在にうろたえてしまった。

少なくともジャンケンをするとき、ほとんどの人は勝つ為のバイアスが働いている。

さて、にしても「勝敗には興味がない」というのは、ひきつづき現代の若者を説明するのに一番てっとり早い性向ではないかと思うのだけど、勝敗への興味のなさを代弁する作家といえばこの人以外にはいない。

阿部和重のデビュー作である「アメリカの夜」は、「春分の日との闘争」という大変風変わりなテーマをとりあつかった作品。ご存知のこととは思うけど、「春分の日」というのは、昼と夜がまったくおなじ時間だけ存在する日、つまり昼と夜の優劣がつかない日のこと。(テーマの時点でなんとも示唆的)

にしても「春分の日との闘争」なんて書くと、読んでない人には、いつものごとくある種の詭弁を弄しているかのように聴こえるかもしれないけど、この作品の場合はそうではない。主人公が「秋分の日」生まれ、だから「春分の日」を叩きのめさねばならない。(と主人公は少なくともそう信じている)という筋なのだ。

いうまでもないけど、いくら主人公が「秋分の日」生まれだろうとも、「春分の日」そのものには勝ちようもないし負けようもない。勝ちでもなく負けでもないといえば、そう、それはジャンケンにおける「あいこ」。つまり勝敗が保留になる瞬間。もう一度ジャンケンを迫られるという、あの安堵と切迫が入り交じった緊張の走る瞬間を切り取った「あいこの小説」ともいえる。

あたらしい商品がでるたびに、あたらしい商品を買わないといけないような気分になるボクたちは、目の前の商品に目がくらんで、本当に欲しいものが見えないという決定不能の時代に生きている。それは、ボクらの生きる時代が「あいこの時代」といえるくらいに安堵(保留)と切迫(焦燥)に覆われているということを意味している。当時25才(か26)の阿部和重が書いたデビュー作の「アメリカの夜」は、そのような保留の瞬間を描写することで、おなじように現代を生きる若者たちの安堵と切迫を忠実に描きだすことに成功している。

合コンでの用例:
「今後一切ボクはキミに完敗さ。」

ちなみに、書き出しのブルース・リーのくだりは、どこか「日本近代文学の起源」を書いた柄谷行人を彷彿とさせる。「近代文学の起源」を再定義しようとした柄谷行人のアプローチを、ブルース・リーのジークンドーを下敷きにアレゴリーとしてしまうようなスタイリッシュなユーモアが、阿部和重らしい書き出しだが、その後の順風満帆な作家としてのキャリアは、このデビュー作のこの技巧的な書き出しによって保証された。と言ってしまったら大げさか・・・。

しかしながら、この類まれな文学的センスが、阿部和重を文学者として、国内の他の技巧的な文学者(保坂和志だとか高橋源一郎だとか)から一線画す所以となっていることは間違いないと思う。

いずれにせよ、あいこの時代の必読書はこちら。

アメリカの夜 Book アメリカの夜

著者:阿部 和重
販売元:講談社
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2006年5月11日 (木)

ぼくは勉強ができない

もし、まだあたながこの本を読んだことがないというのなら、できるかぎり迅速かつすみやかに本屋に走って買ってきた方がいいと思う本がある。山田詠美著、青春小説の名著中の名著「ぼくは勉強ができない」。(こんな言い方が傲慢だということは承知しつつも、それ以上の情熱を込めて。)

村上龍のエッセイ集「すべての男は消耗品である」の記念すべき第一集の角川文庫版の解説で、山田詠美は、村上龍のことを「これでもか」とばかりに辛辣にこきおろしている。ずいぶん前に読んで、いまは手元にもないので、詳しくは覚えていないのだけれど、とにかく「村上龍ごときにそんなこと言われたくない」というような憤慨が、文章全体から滲み出た、解説としては不適当とはいえ、とても面白い文章だったことを記憶している。

その後、山田詠美はだれかとの対談集でも、本気でその時期の村上龍のことを酷評してた(これもなんっていう本だったか忘れてしまった)ので、とにかくそれほどまでに村上龍による「消耗品」発言が気に障ったようである。(ちなみにその後なかよく和解してる。)

たしかに「すべての男は消耗品である」という言葉は、使い方が難しい。これを女性が発した台詞ととるならば、根拠のない傲慢さがもたらすある種の「ユーモア」として受け止めることができそうだが、これを村上龍のような男性がいうと「ユーモア」ではなく、自嘲気味の「アイロニー」と受け止められかねない。

あらゆるユーモアは、原則的に笑いに帰依(苦々しさをともなったとしても)するが、アイロニーとなるとよくて冷笑、大半は不快が伴うものである。たしかにアイロニーとして「消耗品」発言を読み取ろうものならば、そこには、男尊女卑を逆説的に肯定しているような印象が含まれてしまいます。とはいっても悪意のない村上龍は、その後もめげずに「悪意のないアイロニー」として、同名のタイトルのエッセイ集を長く刊行し続けたので、いまとなってはもはやそれが愚かしいタイトルとは受け止められていないけれど。

はじめてその解説を読んだときは、それまで「うんうん」なんて頷きながら、素直に読み進めていただけに、自分まで怒られているような気分になったものです。それで、「おぉ、なんだこの女」と思った記憶がある。(まだ、10代だった。)

山田詠美の「ぼくは勉強ができない」は、一般的に「勉強ができない」ということの美徳を、男子校生である主人公「秀美」の成長の過程を通してユーモラスかつ爽快に描き出した作品として、広く読まれています。そのような読み方をして、最高に素晴らしい青春小説です。

ただし、そういった単なる青春小説に収斂するかというと、それだけでないのが山田詠美のすごいところ。

本書の最後に挿話された「眠れる分度器」の終盤、秀美の母である仁子は、秀美が毛嫌いする担任の先生をお酒に誘うシーンがある。きっとこれからも変る可能性は薄いであろう、この担任の男性と一緒にお酒を飲むシーンをつくることで、山田詠美は、この小説内の大きな流れに小さなくさびを打ちこんでいる。

山田詠美は、単に「勉強ができるだけの男」も見捨てずに男子として取り扱ってくれるのである。すくなくとも「消耗品」なんかではないと。

思うに、山田詠美が村上龍に対して怒ったのは、まさにこの視点なのではないかと思う。「あなたが消耗品っていうのは勝手だけど、わたしが愛している人たち(男性)と一緒にしないで!」と。そう考えると、山田詠美は大人の男達の情操教育を果たさんと崇高な使命を担った作家といえそう。

ただし、ここで男性諸君が注意しなければならないのは、山田詠美に男子として扱われるということには「誇らしさ」以上の、恐怖心に似た「プレッシャー」があるという点だ。そう、まさに山田詠美に消耗品にされてしまうのではないだろうか・・・というような。

合コンでの用例:
「すべての女は消耗品なんだよ」

ぶんなぐられます。

さて、読んでないなんてモグリ。

ぼくは勉強ができない
Book ぼくは勉強ができない

著者:山田 詠美

販売元:新潮社

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2006年5月 8日 (月)

Are you Japanese?

まる一日頭を洗わないと猛烈に頭皮が痒くなってくるのですが、ときどき製薬会社が「24時間たつと自然に頭が痒くなるような成分」をシャンプーに配合してるんじゃないかと訝りたくなる。どこのシャンプーを使っても症状は大体似たようなものなので、もともと人間の身体はそういう風にできてると考えられないことはないけど、もしかしたら大手メーカー各社が、暗黙のうちに結託してるのかも?と、背後にうごめく企業の闇を想像したりして苦笑い。もちろん馬鹿げた妄想だとは思いつつも。

シャンプーに潜む陰謀説はともかくとして、女性のスキンケアもしかり、もっというとシャワーだってそう。毎日それをすることが当たり前になってしまっている行為について、「毎日それをおこなう」という自明の事実について、その必然性を考えることというのは、普段生活をしている限りではあまりない。

でも、考えないだけで「洗髪」という行為が発生し、それが週一回から、週二回になって、その内一日おきになって、ついには毎日することが当たり前になった瞬間があるわけで、シャワーについても同様。

フィツジェラルド「グレートギャツビー」の中で、ギャツビーの葬儀の後、ギャツビーのお父さんがみつけた若き日のギャツビーの行動予定表には「一日おきに入浴」とあるくらいだから(アメリカのことだけど)、シャワー(入浴)という行為も今のように、毎日入って当たり前だったわけではなくて、いつかどこかのタイミングで「当たり前」になったのだと思います。

さて、毎日シャワーを浴びるのが当然であるのとおなじくらい、というかそれ以上に当たり前のこととして、我々は自分たちが「日本人」だということや「日本」という国に生きていることを知っています。しかしながら、これらについても「日本」とか「日本人」という枠組みがいつかどこかで出来上がって「自明」になったのであって、生まれついたときから先天的に「日本列島に住んでるから、ボク(わたし)は日本人」なんて、知っていたわけではありません。

さて、では我々は、いつから「日本」という国に住む「日本人」になったのか?

社会学者小熊英二は、我々が普段から当たり前に甘受している途方もない自明性について、大洋に沈んだ沈没船を引き上げるトレジャーダイビングのごとく、膨大な量の文献に潜水し、継起となった重要な記述を引き上げ、その自明性がいつ、だれの、どのような意図によって生み出されたのか?ということを白日のもとにさらします。

そしてその途方もない宝探し的分析によって、我々は、我々の「当たり前」が、歴史的にみれば「ついいましがた」なんらかの(当然のごとく政治的な)意図によって生み出されていることを知ります。

もしそのニーチェからフーコーを経由した「系譜学」的な手法の取り方に疑問を持たれる方がいるとしても、それを違う方向から立証するのは、きっと難しいに違いない。それほどまでに途方もない参考文献の量。

その量ゆえの説得力(否定不可能性)。

合コンでの用例:
「シャンプーをしないと頭が痒くなるのは、製薬会社の陰謀なんじゃないかと思うんだよね。」

面白い人と思われるか、誇大妄想狂と思われるかはいちかばちかだけれども。

我々がいつから日本人なのか知りたい人はこちら。



単一民族神話の起源?「日本人」の自画像の系譜

Book
単一民族神話の起源?「日本人」の自画像の系譜

著者:小熊 英二

販売元:新曜社

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うーん、高いし難しそう!という方は100%Orange の装丁がかわいいこちら。
小熊英二の仕事が垣間みれます。(フリガナつきで分かりやすい。)



日本という国

Book
日本という国

著者:小熊 英二

販売元:理論社

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2006年4月13日 (木)

あなたに主体性なんてない

今日も、服従する主体性について書かねばなるまい。

さて、ニーチェなみに悲壮感全開で書き出してみました。本当は、ビールの飲み過ぎで酔っぱらっているだけです。

酔っぱらって権威についてなにごとかを書こうという試みが、すでに権力の傘下に下ったが故の所作であるとかなんとか言われたら、否定しません。主体性はボクにも皆無です。でも、いいんです、それで!!なんせ、現代の若者は、究極的に被搾取者でありながら、究極的に楽観主義なんだもん。

ちなみに、ボクの友人に「あー、ドモホルンリンクルの雫を落ちるの見届ける人になりてーな」と、本気で切望しながらネットワークエンジニアとして、時給3500円くらいもらっているヤツがいます。さて、どちらが被搾取的か?酔っぱらっているので、よくわかりません。

よくわからないので、本題に入ろうと思います。

先日、クライアントのコールセンターに往訪したときの話です。

現代のコールセンター(いまはコンタクトセンターというのだとか)というのは、見たことも聴いたこともないようなシステムが完備されていて、たとえばセンターに問合せのあったすべての通話を録音するシステム(分析やクレーム対応時に利用するらしい)だとか、通知された電話番号から顧客情報を呼び出すCTI(なんの略か忘れました)と呼ばれるシステムやら、顧客対応からマーケティング活動までのCRM(カスタマーリレーションシップマネージメント)を一手に引き受けるSFA(セールスフォースオートメーション)システムとか、とにかくカユいところに手が届いた、偏執狂的顧客至上主義が成立しています。(見ていて「肩が凝るのは日本人だけ」という話を思い出しました。)

そう、そんで、その中にとっても興味深いシステムを発見したのです。

コールセンターの対応中のメンバーが、いまなにをしているのか?というのを一望できるセンタービューシステムというシステムです。どういうシステムかというと、当日の目標値に対しセンター全体でどのくらいの件数を処理しているか?とか、個人別に通話時間が長くなっている人間がいないか?とか、休憩時間は適切にとられているか?などを監視することのできるシステムなのだそうです。このシステムは、もちろん電話をとっている人間の席にあるのではなく、SVと呼ばれる人間の席にだけ、鎮座ましましているというわけである。

さて、これはもう、まさにあの「パノプティコン」にほかなりません。

監視されている人間には、監視されているかどうかの事実性を判断することはできないが、見られている可能性については常に意識せざるを得ないこのシステムは、ジェレミー・ベンサムによって考案され近代資本主義の基本モデルとして機能した(そのことを明らかににしたのはミシェル・フーコーですが)「パノプティコン」と、寸分違わぬ機能性を保持し、そしてまさにそのように機能しているのです。

その前に、あまりに偏執狂的かつ神がかり的なインフラを目の当たりにしているものだから、突如目の前に現れた「パノプティコン」的装置に、ニーチェからフーコーに引き継がれた予見を思い出して、強い目眩を感じてしまいました。

でも、もしかしたら、イタリア人と昼休みに飲んだビールのせいかも。

合コンでの用例:
「見られると興奮するっていうのは、むしろ正しく学校教育を受けて来たからに違いないから胸を張るべきだぜ。」(下ネタにだって知性はつきものです)

さて、「見られたい」という願望が、「パノプティンコン」的情操教育の産物によるものかどうかは、正直不明ですが、「パノプティコン」について理解を深めたいという方は、先日紹介したミシェル・フーコーの「監獄の誕生」を。その前に入門書という方は、こちら。今日は二冊。(前述の「肩が凝るのは日本人だけ」というエピソードは内田樹に詳しい。)

寝ながら学べる構造主義
Book 寝ながら学べる構造主義

著者:内田 樹

販売元:文藝春秋

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フーコー入門
Book フーコー入門

著者:中山 元

販売元:筑摩書房

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2006年4月 6日 (木)

少年ジャンプ、近代文学。

日本の若者の情操教育に少年ジャンプが与えている影響を考えることがあるのだけれど、たとえばこんなことを思う。

「森鴎外も石川啄木も読んだことのある20代」
「ドラゴンボールや、ワンピースを読んだことのある20代」

かけてもいいけど、前者の方が圧倒的に少ないはず。10代にいたっては、たぶん字もよめないんじゃないかと思う。

「えーと、い、いしかわぶたもく??」

いずれにせよ現代の若者が、いろんな問題を「かめはめ波」で解決してきたことは推して知れます。

さて、柄谷行人は、定本集の刊行を終えるにあたり、その長いあとがきのようなものとして「近代文学の終わり」という作品を上梓し、近代文学が終焉したことを告げました。(随分前からそのことは言っていたけれど)

「文学が終わった」というような書き方をすると、そういう文脈をしらない人にひどく誤解をされそうだから、柄谷行人の言葉を引用します。

--- Karatani Wrote
それは近代文学の後に、たとえばポストモダン文学あるということではないし、また、文学が一切なくなってしまうということでもありません。私が話したいのは、近代において文学が特殊な意味を与えられていて、だからこそ特殊な重要性、特殊な価値があったということ、そして、それがもうなくなってしまったということなのです。
---

柄谷行人がいうように、夏目漱石や森鴎外のような作家に代表される近代文学が、日本の価値観(コンテクスト)の形成に大きく寄与したであろうことは、いまさらいうまでもないことです(若い人にはいわないとわかりません)が、じゃぁ、そのあと現代文学がはじまったのか?というと、上述のとおりそんなのは全然始まってません。

いまや、文学そのものの「重要性」とか「価値」みたいなものは、ほとんど皆無といっていいし、なんなら概念そのものが消失しかけてる。少なくとも文学が現代の若者の問題を解決してくれるような存在でないことは、
同時代の周囲の人たちを見ていても、激しく感じるところです。

じゃぁ、近代文学が終わってなにが来たのか?

そうです。「ドラゴンボール」です。

社会にでるといたるところに「オッス!オラ悟空」的な人間をみることが多い。いっけん「この人は悟空じゃないよ」みたいな人がいても、よくよくみたらドラゴンボールに反動形成されてたりとかして、アンチ悟空のくせに「オッス!オラIT社長」(名刺あり)とか言ってる。

かめはめ波をいかにしてよけるか?または跳ね返すか?

資本主義を揚棄するためには、そこからはじめる必要がありそうです。

合コンでの用例:

「近代文学が終焉して、次に到来したのは少年ジャンプなんだよ。」

近代文学が終焉したのちにドラゴンボールが来たという論理は、若干の飛躍を感じられる方も少なくないかもしれないですが、もし飛躍してたとしたらそれは舞空術によるものです。柄谷行人のオススメはこちら。

第1巻 日本近代文学の起源 増補改訂版 Book 第1巻 日本近代文学の起源 増補改訂版

著者:柄谷 行人
販売元:岩波書店
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2006年4月 4日 (火)

ボクらがどうしようもなくオクテな理由(試論)

「柴田元幸の訳書にハズれなし」といわれることがあるけれど、あれはホントだと思う。

読む本読む本、ホントにハズれたためしがない。あまりにもよすぎるから、もしかして原文が素晴らしいのではなくて、柴田元幸の書く日本語が素晴らしいのではなかろうかという気さえしてくる。小説家の「作者買い」は、作品の質によってハズれることも往々にしてあるけれど、この人の「翻訳者買い」は、恐ろしくミス率が低いと思う次第である。

そんなことをいうと、スティーヴン・ミルハウザーやポール・オースターに怒られるかもしれない。しれないけれど、読者だけでなくて、彼らにしてみても柴田元幸に翻訳してもらえて(それ以外のだれかではなくて)「よかったな」と思っているに違いない。

少なくとも、彼らとの数少ないインタビューを読む限りでは、おおっぴらにそう表現してはいるわけではないにせよ、一種の安心感のようなものを読み取れます。

もちろん、日本人には柴田元幸以外にも素晴らしい翻訳者が(素晴らしい小説家とその数を比べようものならば天と地ほどの比率で)多数いるから、ポール・オースターもレベッカ・ブラウンも、翻訳者が柴田元幸でないからといって絶望することはないにせよである。それくらい柴田元幸の翻訳には、魔法的な特別な力があるように思うわけである。

さて、とはいってみたものの今日は柴田元幸を絶賛しようと思っているわけではないのです。そうではなくて、日本人の翻訳能力の高さについて触れたいと思います。

柴田元幸とその他のすぐれた翻訳家の方々のおかげもあって、最近は翻訳小説だけでなくて、翻訳に関する技術書や、翻訳者別のインタビュー本なんかも発売されいていて翻訳文学がひっそりとつつましくブームを迎えて(たぶん)いるようです。翻訳文学の素晴らしさに気づいている、ごく少数の文学愛好者の方々にしてみれば、日本人の翻訳能力というのが非常に優れた技術だということについて、みんな激しく賛同してくれるところではないかと思います。

なぜ日本人は、翻訳能力に長けているのか?

というようなことを考えていて、述語が最後にくるという日本語の言語表現の特性のようなものに思い当たりました。言語学はほとんど通じていないので、たんなる仮説なのですが、日本人は遠い遠い昔から、人づてに聴いた話を面白おかしくもったいつけて話すような文化があったのではないか?ということです。

ヨーロッパのように国境が隣あっている国では「ゆっくり話してたら隣国が攻めてきた」というような、切羽詰った歴史の局面がきっとあっただろうことを考えても、日本という地理的特殊性がそのような特性を助長させたとかいっても、なんとなく説得力があります。(とかいうと、おなじ文法の韓国語については説明がつきませんが、日本をのぞけば東端だったということでなんとかご理解いただければ幸いです。)

結果ではなくプロセスに美学を見出すというのは、言語に限らず茶道なんかにも言えることですよね。岡倉天心先生も言っていました。

とはいっても、そういう文化が喪失の危機を免れているか?というと、これも一考に値しますが、それは次の機会に。本稿も試論なので、もっと改定補稿をすすめる予定です。

合コンでの用例:

「ボクが、どうしようもなくオクテなのは、旧石器時代に端を発してる問題なんだよ。」

さて、日本のすばらしい翻訳者をお知りになられたい方にはこちら。「翻訳者買い」という新しい世界がひろがること請け合いです。

翻訳文学ブックカフェ Book 翻訳文学ブックカフェ

著者:新元 良一
販売元:本の雑誌社
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2006年4月 2日 (日)

日本語という困難とその超克

エッセイのテーマが、基本的に日本と外国の文化の違いに関することなので、読んでいれば外国の人が書いた文章なんだろうな・・・と、文脈から判断できそうだけれど、書かれている日本語からは、おおよそ外国の人が書いた文章とは思えません。この人の書いた本は。

アーサー・ビナードの「日本語ぽこりぽこり」という本の話です。

構成も、修辞も流麗。美文とはかくあるものと、「日本語における美文を再定義した美しい随筆のための見本文」なんて言ったら若干大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、とにかくこの人が書いたようなキレイな日本語を書ける日本人は、何人くらいいるだろうか?と、素朴な疑問。少なくとも職業欄に「作家」と書けるような人であっても、かなり苦戦を強いられそうです。

作品を読んでいて面白いのは、エッセイを通して著者が日本語習得にあたって直面した困難をおもしろおかしく表現している箇所なのですが、ここでは読み手の自分(読者)は「日本語習得の困難」に客観的に日本人として対峙しているということです。「うーん・・・、確かに難しいよなぁ・・・」とか、そんな感じなのですが、状況を複雑にしているのは、その日本語を書いているのが日本人ではないというところです。

つまり、「日本語という困難を超克できずにいる日本人が、日本語という困難を超克した外国人に逢った」とでもいうべき感覚なのです。「オレは、そんな困難とっくに乗り越えてるぜ」という方はさておくとして、普段から日本語という困難に直面しているという現代人の方は、日本語がそれなりに素晴らしいと思えるくらい素晴らしい作品だと思います。

合コンでの用例:

「今日は、ポロリもあるよ。」
(小声で耳元でささやくように)

きっと、うちももあたりをつねられるに違いありません。さて、アーサー・ビナードの作品は、そのエッセイのテーマになっている「文化の違いによる誤解」という分かりやすい文脈とは別に、日本における「翻訳文化の発達」とか「美文の定義」などといった、日本語という言語に関係する諸問題を考察するためのきっかけになるような示唆も含んでいるように思います。あと、「モテ」るために読むなんていうとバチがあたりそうだけど、この人はきっと間違いなく「モテ」てるような気がします。



日本語ぽこりぽこり

Book
日本語ぽこりぽこり

著者:アーサー・ビナード

販売元:小学館

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2006年3月27日 (月)

「モテ」のインフレリスク

仕事柄、普段からリスクマネージメントということについて考えて
いるのですが、会社におけるリスクマネージメントというのは、資
産設計における分散投資に共通する部分が多いというようなこと
を感じています。これは、合コンの場合も意外と応用できるような
気がします。

資産設計を考える場合、外国為替は「購入することがリスク」な
のではなく、「購入しないことがリスク」です。

また単に、自己資産を銀行に貯蓄しているだけでは、長い時間を
かけてじわじわと貨幣価値を蝕む「インフレ」によって、将来は額
面以下の価値になってしまいます。これを「インフレリスク」と言い
ます。

この場合は、投資をすることがリスクなのではなく、投資をしない
ことがリスクと言えます。

「ホントはモテるけど、まだその期が到来していないだけ」と考え
ながら、失敗(リスク)を恐れて、自分の才能を温存(貯金)して
たら、遅れてきた後輩にかわいい女の子を連れて行かれてしま
った。なんていうのは笑えるけど、笑えません。

リスクを恐れてると、「モテ」の価値もインフレを起こしてしまう
可能性があります。この場合は、「モテのインフレリスク」と言え
そうです。

合コンでの用例:

「今後10年間の日本のインフレ率は8%だから、もし100万
 貯金してたとして10年後には92万円分の価値になっちゃう
 らしいんだよ。ってか、もう、今晩全部使っちゃおうよ。」

リスクについて興味がある方は、「これからの資産形成を
考える会」(著)、「「長期」「分散」「最適」で考える世界一
シンプルな投資法」をオススメします。



「長期」「分散」「最適」で考える世界一シンプルな投資法

Book
「長期」「分散」「最適」で考える世界一シンプルな投資法

著者:これからの資産形成を考える会

販売元:講談社

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