2006年6月10日 (土)

「不在の物語」、あるいは「未亡人の一年」

構造主義の人ロラン・バルトの写真論「明るい部屋」は、哲学書であるだけでなく、亡くなった母へ捧げられたオマージュでもある。この本のなかのロラン・バルトは、哲学者というよりも、「実際の母」と、写真が写し取った「若き日の母」という二重の不在に胸を打たれてた、単なる寂しがりやの息子という態だ。

あのクールな構造主義の人がこれほどまでに自己をさらけだし、寂しがりやの息子だということを露呈してまで写真の記号論について書き記したのには、亡き母のために一冊の本を捧げるという意図ももちろんあっただろうが、それ以上に、個人的な体験に基づいた特定の一枚の写真(若き日の母の写真)を物語る以外には、写真の持つ記号論的意味を浮き彫りにすることも、そもそも「写真」一般について語ることも、不可能だということを知っていたためだろう。

そういう意味でいうとこれは、哲学書でありながら、かつ「不在の物語」ということになる。

さて、おなじように「不在」の物語性について書かれた、ジョン・アーヴィングの「未亡人の一年」について書きたい。

この小説も、「不在の物語」と言える。あるいは、より正確にいうと『「不在の物語」の物語』ということになるだろう。「物語」の物語とややこしく言ったのは、登場人物たちの職業がことごとく作家のためであるが、「不在」のもつ物語性が、物語全体の主軸に沿えられている。(数多くの作家が登場するアーヴィングの小説だが、この小説にいたっては、4人もの作家が登場する。)

主人公のルースは、死んでしまった兄たちの夥しい写真に囲まれた家で育つ。が、ある日、二人の息子を失い途方に暮れつづけた母マリアンは、その写真とともに家を出て行ってしまう。残されたのは、作家である父と幼いルースと、母のつかの間の愛人エディ。

物語はそのようにしてはじまる。

主人公のルースは、消えてしまった「兄たちの写真」にまつわる物語をでっちあげることによってなるべくして作家となる。作品内に登場するルースの作品は、後述する、エディやマリアンの小説のように決して「不在」に捕われた作品ではないが、作家の継起そのものが「写真」=「不在」であることからいって、「不在」の物語と言えるだろうし、実際ルースは、作品の出版や人生の継起のごとに「母」の出現を期待している。

また、ルース以上に、「不在」に憑かれているのが、ルースの母マリアンとマリアンのつかの間の愛人エディである。

エディは、「若かったマリアン」(知り合ったときはすでに39歳)と「実際のマリアン」という二重の不在に苛まされながら、年上の女性しか愛せない男を主人公にした小説ばかり(というか不在に捕われているのでそれ以外は書けない)を書いて、作家となるし、同様に、幼い娘をおいて失踪してしまった母マリアンもまた、失った「息子たち」の思い出と、不在の刻印を残酷に刻み込んだ「写真」に囲まれながら、まさにロラン・バルト的な二重の不在に苛まされたまま、行方不明者課につとめる女刑事を主人公(文字通り「不在」苛まされている職業である)にした、小説を書いて作家となる。

すでに登場した時点で作家だった父テッドについては、「不在」そのものが作家の継起にもなっていないし、「不在」に苛まされているというわけではないが、描かれた作品はすべて、本来「いるべきでないもの」が「いるかのような」、まさに「不在」にまつわる作品である。

単なる「不在」をテーマに物語を紡ぐ(そういうテーマに基づいた素晴らしい作品はたくさんあるが)のではなく、『「不在」をテーマに物語を紡ぐ作家たちの物語』と、物語の構造を深化させるジョン・アーヴィングの技術には、脱帽するばかりである。

合コンでの用例:

「この世の中は、「不在」が多くの物語を紡いでいるんだよ。」

ジョン・アーヴィングの小説の多くで、登場人物たちが、あっさりと死んでしまったり、そしてまた多くの登場人物たちが職業的な作家となるのは、不在が物語りの継起となるということが、小説の世界に限らず、我々の生活においても、歴然とした事実として存在することを伝えるためなのではなかったか。

とはいえ、時代錯誤的な全体小説の様相を呈したジョン・アーヴィングの小説を、たったひとつのテーマに基づいて読み解くなんてもったいないので、読まれる方は、それぞれの楽しみ方をするべきである。必読の古典的現代小説はこちら。



未亡人の一年〈上〉

Book
未亡人の一年〈上〉

著者:ジョン アーヴィング

販売元:新潮社

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参考までに、ロラン・バルトの感動的な不在にまつわる哲学書も。



明るい部屋?写真についての覚書

Book
明るい部屋?写真についての覚書

著者:ロラン バルト

販売元:みすず書房

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2006年5月31日 (水)

「健康で幸福」というまやかし、あるいは「体の贈り物」

ボクたちは生きている。

これが真実として、じゃぁ、ボクたちは生きているから幸福だろうか?

そんなことはないと思う。生きていることが、幸福の条件になってしまったら、死んでいった人たちも、これから死にいく人たちも、みんな不幸だということになってしまうではないか。それに、毎朝、起きて、あの呪われたような職場に出かけて行くことを、「あぁ、超ハッピー!!」なんて言えないではないか。(ボクはへらへら笑っている技術に長けているけど。)

「ボクたちは生きている。」

とりあえず、ここから始めてみるとして、次はどんなことが巻き起こるだろうか。

ボクたちは生きていて、そして、空気を吸う。
(空気という贈り物を授かる。)
ボクたちは生きていて、冷蔵庫に入った冷たい水を飲む。
(あるいは、水という恩恵に預かる。)
ボクたちは生きていて、かわいい女の子を視線の外側で追う。見てないふりをして。
(「かわいい」というのは、まぎれもなく神の恩寵である。)
ボクたちは生きていて、ヒドイ目にあう。たとえば、買ったばかりの傘をコンビニで盗まれたり。
(まさに、レ・ミゼラブル。)
ボクたちは生きていて、買ったばかりのスニーカーを履いた日に土砂降りに見舞われる。
(もちろん、ため息。)

要約するとこういうことになると思う。

「ボクたちは生きている。そしてときどき、思いも寄らない贈り物を受け取って、ときに泣いたり、ときに笑ったりする。」

そう、できる限り簡潔に言えば、そういうことになると思う。

「生きている」ということが、必ずしも幸福の条件だとは言えない。

レベッカ・ブラウンの「体の贈り物」について。

「体の贈り物」は、末期のエイズ患者の看護を仕事とするホームケアワーカーを主人公にした連作短編小説です。なんて説明すると、「あぁ、そういうの全然興味ない。」とか、「そういう重いの、いまはあんまり読みたくないんだよね。」という、ため息まじりの沈黙が聴こえてきそうだけれど、とにかくまずそう説明しないわけにはいきません。だれがなんといおうと、小説全体を覆う設定は否定しようもなくそういうことになっています。

それでも、少し詭弁を使っていいのなら、こうも言えます。これは、「贈り物」に関する小説です。我々の生活には、望むと望まざるとに関わらず圧倒的に「贈り物」に溢れている。いうまでもなく「贈り物」はいつだって、心躍るものです。

だからたとえば、ホームケアワーカーである主人公が、末期のエイズ患者に対して、ナイチンゲールなみの天使的な優しさを発揮して、無償の献身の果てにすべての患者達が清々しい死を迎えるみたいな、そんなヤボったくて重苦しい小説を想像していたらそれは幸いにも勘違い。

本書における「贈り物」のあり方は、実に多様です。

主人公から患者へ贈られる配慮という贈り物だったり。
患者から主人公へ贈られるシナモンロールという贈り物だったり。
お風呂のあとの患者の肌に触れる心地よい空気という贈り物だったり。(空気ですら贈り物なのだ。)
死以外には出て行くことができないホスピスから「自力の失踪」という贈り物だったり。(他の患者達のあいだで伝説になる。)
苦しむ幼なじみの友人に贈った、患者同士の「死」という贈り物だったり。(そこではもう「死」そのものですら、彼らを救済する贈り物なのだ。)

小説の後半に収録された「姿の贈り物」(各章は「○○の贈り物」というタイトル)のワンシーン。

毎日の生活に少しずつ言葉にはできない疲労を感じ始める主人公は、病床の患者の疾患をみて目をそらしながら、病床に臥す患者にむかって、残酷な思いを巡らせるシーンがあります。終止穏やかな調子を整えた小説の中にあって、そのシーンは、その残酷さゆえに、胸を打ちます。

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「でもあなたはそこで病気になったわけよね。そこから死にに帰ってくることになったわけよね。」と考えていた。そんな風に考える自分がすごく嫌だった。でも私はこう自分に言い聞かせもした — 私自身は正しいことを感じたり考えたりできなくても、とにかくこの人は食べ物を与えられているし、シーツも替えてもらっているし、キッチンを掃除してもらっているし、体に軟膏を塗ってもらっているじゃないか、と。
---「体の贈り物」より

ボクたちが、笑ったり、悲しんだり、楽しんだり、つまづいたり、怒ったり、苦虫をかみつぶしたり、貧乏揺すりしたり、舌打ちしたり、吐き気を催したり、ちょっと小躍りしたり、あくびをしたり、そのまま居眠りしたりできるのは、だれかから、なにかから贈り物を受けとっているからなのです。

合コンでの用例:
「ボクからの贈り物は、この笑顔と、この笑えない冗談だけだよ。」

本当に笑ってもらえないのだから、嘘つきでないことだけは伝わるはず。

さて、「健康で幸福だなぁ」なんていうのは、愛国心の育成と徴兵制を正常に機能させるために帝国主義が開発したまやかしだというようなことを明らかにしたのはたぶんミシェル・フーコーだったと思うのですが、とりあえず意中の女の子に素敵な贈り物を贈りたいという方は、こちら。

体の贈り物
Book 体の贈り物

著者:レベッカ ブラウン

販売元:新潮社

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柴田元幸訳

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2006年5月27日 (土)

ミクシィの外側の国で、あるいは「最後の物たちの国で」

これはミクシィの外側のお話です。と彼女は書いていた。

アナタはしらないかもしれませんが、この国では政府のやり方は、いつも横暴なのです。最近では、駐車違反の取り締まり法が改正されるという噂で、街中がもちきりです。駐車違反の取り締まりを民間に委託するのだというのです。彼らは、駐車違反を取り締まるためだけに訓練された駐車違反取り締まりのエリートです。ずるがしこいけど、管理もずさんだったこれまでの担当者たちとはやり方が根本的に違います。有無をいわさずフロントガラスにステッカーを貼り、車のナンバーをデジタルカメラに納めるそうです。しかも、これからは運転者ではなく車の所持者に罰金を請求することにして、徴収率100%を目指すというのです。(アナタはびっくりするかもしれませんが、これまでは「逃げ得」といって3割の対象者が罰金から逃れていたそうです。)

ちなみにこの改正によって、予測では当局の駐車違反による収入はいままでの2.5倍程度増加するそうです。増えたお金がどこにいくかは謎ですが、天下り先企業との癒着がこれまで以上に深まることは間違いないというのが、この国の市民の大方の憶測です。

それにアナタはしらないかもしれませんが、この国でパチンコが「ギャンブル」の規定からはずれているのは、警察組織のOBがパチンコ業界に天下りしているからなのだそうです。あれはあくまでもパチンコの出玉で交換した文鎮を「古物商」に売って現金に交換しているだけなのだそうです。ワタシは、いっとき誤って普通の文鎮を持っていってしまい、すごく恥ずかしい思いをしたのです。この国では、ペーパーウェイトとしての「文鎮」と、特定の古物商が高く買い取ってくれる「文鎮」の二種類が存在するのです。

ほかにもあります。アナタはしらないかもしれませんが、おなじく法改正でこれからは自転車でも無灯火や飲酒運転は罰金をとられるのだそうです。しかし「もっと世の中に横行する悪行を取り締まってくださいよ」などと生意気な口をきいてはなりません。当局の連中は生意気な口はすかさず逮捕の構えです。もし「自転車、飲酒運転で逮捕」なんていう事態に巻き込まれたら、まぬけすぎて笑えないので、今後は一切の酒気帯び自転車運転を控えねばなりません。

本当は、ほかにもまだまだあるのですが、これ以上この国の理不尽について書き続けてもあなたの気分を害すだけだろうし、実際ワタシ自身書いていて気分が悪くなってきたのです。

でも、最後にひとつだけ言わせてください。このミクシィの外側の世界では、いまでもこのような理不尽なことが(数えきれないほど数多く)巻き起こっているのです。あなたはやさしい性格なので、ワタシがこのミクシィの外側の世界で四苦八苦していることをこの手紙で知って、もしかしたらこの国にやってきてしまうかもしません。でも、お願いです。どうかミクシィの内側から出てこないでください。外の世界にはロクがなことがありません。

ワタシが、無事にミクシィにログインできたらまたメールします。

合コンでの用例:
「仕事を退職したら、ミクシィで平穏無事な老後を過ごそうかと思っているんだよね。」

そのうち仕事とか食事の出前なんかもぜーんぶミクシィできるようになることを予見して。

ポール・オースター著「最後の物たちの国で」は、帰ってこなくなってしまった兄を探しに「最後の物たちの国」に入った妹のアンナの書いた手紙という形式をとった小説です。反ユートピア小説と一言で片付けてしまえる程に、「最後の物たちの国」は絶望的な国です。具体的な政府は表面的にしか姿を表しませんが、理不尽で怠惰であり(感情のない官僚組織)、人々は他人を傷つけてでも自分が生き延びることしか考えていません。主人公は、この国でなんとかぎりぎり生き延びて、その手紙を書くことに成功しました。といっても、国から逃れでることも、書いた手紙が宛先に届くことも保証されたわけではない点からいうと、それを「成功」といってしまっっていいかは、甚だ疑問が残るところですが。

この作品の前の作品「鍵のかかった部屋」が、「部屋の中に入れない」物語だとすれば、この作品は「部屋の外に出れない」物語として読み取ることができます。(実際「鍵のかかった部屋」でファンショーを探したまま行方をくらませてしまった探偵「クィン」のパスポートを主人公が拾うシーンがあるため、ファンショーの住む「鍵のかかった部屋」の内側の物語として読むことも可能かもしれない。)

我々が、自分たちを含む「国家」や「組織」や「社会」を批判するとき、その批判に含まれるのは、その外側に出ることのできないジレンマと、枠組みの中でなんとか生き延びようとする希望に他ならないわけですが、絶望に光明を見いだすことこそが人間らしさなのだとすれば、こことは違う「最後の物たちの国」に住む住人たちは、光を見つける能力に長けた人間たちといえるかもしれません。魂の漆黒の闇に光を見いだしたい人はこちら。(まごうことなき柴田元幸訳。)



最後の物たちの国で

Book
最後の物たちの国で

著者:ポール・オースター

販売元:白水社

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2006年5月19日 (金)

活字中毒者の待ち合わせ間際の杞憂、あるいは「カメレオンのための音楽」

待ち合わせの時間に間に合わない。

急ぎ足で駅に向かう道すがら、はたと、本をもってないことに気付き(活字中毒者にとってはあの恐怖の瞬間)、近くにある小さな本屋に入って、持ち歩くのにも電車で読むのにもちょうどいい、文庫版の短編小説かなにかを探そうと陳列された書棚に向き合うとき、とりあえずまっさきに向かうのは新潮文庫の海外作品のところなのだが、そういう行為を「あー、わかる。」と思ってくれる人は自分以外にも結構いると思うのだけれど、どうだろう。

入った本屋が小さければ小さいほど、新潮文庫の海外作品のコーナーはわくわくします。あぁ、こんなちっちゃな本屋にラヒリが!とか。あぁ、こんなとこにアーヴィングが!なんて、驚きに見舞われるから。

さて、とはいっても、話したかったのは、資本主義経済のグローバリズムが場末の本屋にまで及ぼしている影響というようなことではなくて、トルーマン・カポーティのこと。

上述したようなふらっと立ち寄った小さな書店で、さらりと読めそうな本を探そうというとき、新潮文庫の書棚の「カ行」に必ずといっていいほど鎮座ましましているのがカポーティの「ティファニーで朝食を」。もう一歩文学作品に踏み込んだ書店の場合、となりに「冷血」なんかが並んでたりする。

で、大体かなりの確率で「カ行」はなかったことにしちゃっていた。(おなじ「カ行」に同様に必ずといっていいほど陳列されてる、カフカの「変身」については、すでに過ぎし日の夏休みの読書感想文に、「本が薄い」というだけの理由でチョイスされている。)

「ティファニーで朝食を」という背表紙を見て思い浮かべるのは、なんといってもオードリー・ヘップバーンのこそばゆい微笑だし、その後ろに感じるのは、とげのないアメリカの古い映画の原作というイメージ。それで、たまたまとなりに「冷血」なんかが置いてあったりしても、「ノンフィクション」の文字と、その本の厚さにため息まじりでかぶりを振ってしまうのだ。

なのでたぶん、新潮文庫のマーケティング(ヨンダパンダがいくらカワイくなっていったとしても)の仕方では、一生カポーティを手に取ることはなかったんじゃないかと思う。なぜなら、「ティファニーで朝食を」と「冷血」という隣あう本同士にある溝、その断絶が、深すぎるから。節操のなさそうな作品のテーマと、有名すぎる「カポーティ」という名前に、ぜんぜん興味を惹かれなかったのだ。

では、なぜカポーティを手にとったかというと、フィッツジェラルドの短編をいくつかまとめた短編集「マイロストシティ」の序文で、村上春樹が、トルーマン・カポーティを魅力的に説明していたから。(恐るべき影響力)

それで、もともと「カ行」なんてなかったのだと思うようにして送っていた積年の生活に終止符を打ち、一念発起して「カ行」の存在を受け入れることにしてみると、たちまち「ティファニー」と「冷血」に対して感じていた思惑が、不当だったということに気付いたわけです。

「ティファニーで朝食を」という作品が、オードリー・ヘップバーンの映画の存在によって、文学的価値を失うような作品ではないことや、いまとなっては目新しくもないノンフィクションノベルという手法そのものが、カポーティによって確立されたということを知ることによって。

ただし、カポーティの本質はそれでもやはり「ティファニーで朝食を」と「冷血」の合間の深い断絶なのではないかと思う。

その、断絶、谷の深さ、その「よくわからなさ」が、トルーマン・カポーティという作家の希有の才能のなせる所産だと思うのだ。

カポーティが素晴らしい小説家であるのは、たんなる「作家」としてではなく「小説家」として、物語そのものの価値だけでなくて、テキストという表現手段を駆使し、あらゆる技巧的表現を模索した姿勢にあるのではないかと。

その失敗や成功の所産である「よくわからなさ」が、カポーティの最大の魅力なのではないかと。

どちらにしても、待ち合わせ前に急ぎ足で小さな本屋に入るようなことがあれば、すかさず「ティファニー」を手に取ったとしても、あなたが後悔されることはないことだけは保証しておきます。

合コンでの用例:
「オレが今日遅刻したのは、ヨンダパンダに捕まってしまってたからさ」

さりげなく本も読んでるんだぜということをアピール。

ゆっくりカポーティを読み始めたいという方にはこちらをオススメ。深い懊悩の後も、書くべきことをみつけられなかった「冷血」出版後のカポーティが晩年に出版した唯一の作品、トルーマン・カポーティ著「カメレオンのための音楽」(野坂昭如訳)。

まるで遺作になることを予感しているかのようにこれまでの自分が出版した作品に対する述懐から始まる序文は、カポーティ自身の作品の魅力を自分自身で客観的に称えた名文。編みこまれたそれぞれの短編からは、カポーティがたんなる作家であることを自分に許さず、常にあたらしい表現方法を模索し続けたことを感じることができる名著です。

カポーティが「カメレオンのための音楽」というとき、「カメレオン」という表現が、表現者としてさまざまな手法をもちいた自分自身に対するメタファーなのか、それともカメレオンのように一瞬一瞬で様相を変えてしまう読者を指したメタファーなのか、読みながら考えてみるのも一興です。

カメレオンのための音楽 Book カメレオンのための音楽

著者:トルーマン カポーティ
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年5月15日 (月)

ちょいワル文学再び、または、ぼくらが夜な夜な眠れぬ理由

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夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。彼らはなにをするのか。
夜を現存させているのだ。(モーリス・ブランショ)
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眠れない夜のしじまに、暗闇を見つめるとき、ときどき思うことがある。もしかして魂が、活動を始めたのではないかと。もしかしたら、眠れないのではなくて、ついさっきまで眠っていたのではないかと。

ブランショの美しい言葉の引用からはじまるアントニオ・タブッキの「インド夜想曲」は、本人が前書きで記しているように「不眠の本」です。また、単に「不眠の本」であるだけでなく、「旅の本」でもあります。

さて、タブッキは親切にも書き出しのつづく文章ですかさず謎めいたその小説の定義についてヒントを与えてくれています。

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不眠はこの本を書いた人間に属し、旅行は旅をした人間に属している。
---アントニオ・タブッキ「インド夜想曲」まえがきより

多くのフリーターが末永く「フリーター」でいることを望んでいるわけではないように、程度の差こそあれ、多くの大人達が白昼の舞台で繰り広げられる社会的活動(仕事)に従事することを心から望み、「これこそが本当の自分だ」と考えているわけではないはずです。そんな風に思えるような生活を送っているのはほんの一握りの人だけだし、もしかしたらそれだって単なる思い込みってことは充分に考えられます。

たとえば、酔っぱらい相手に注文を承りながら、嬉しくもないのに「はい、よろこんでー」と言うとき、たとえばお世話になんかなっていないクライアントへのメールに「お世話になっています」という一文を添えるとき、あなたの魂は眠ってしまっていて、身体だけが旅していると考えることはできないだろうか。

あなたの身体は、昼の間「魂」を眠らせたまま旅をしてきて、夜になって「身体」が睡眠を欲し始めると、「魂」がのそのそとあくびなんかしながら、起き上がってくる。そして、「身体」が掴みかけてた眠りの糸口を、遠い彼方の洞窟のようなところに追いやってしまって、暗闇の中に明晰さとともに置き去りにしてしまうのだとしたら。

物語は、失踪した友人を探しながら、幻想に満ちたインドを逍遥する主人公のお話です。主人公は、失踪した友人が残したわずかな手がかりをもとに、様々な人をたずね、また偶然の出会いを重ねながら、ゆっくりと目的地へと近づいて(導かれて)いくというもの。探しているといっても、探している理由も明らかではなくて、深刻さは希薄。どこかで話をはぐらかされたような謎めいたストーリの進め方は、夢遊病者の旅行記(まさに本のテーマのごとく)を読んでいるかのよう。ただし、その謎めいたストーリに秘められた警句的な意味、とくに物語の最後にかけてはとてもストレート。

終止インドの生温さを感じさせるような文章からは、インドの混沌と喧噪がひしひしと伝わってくる。また、通り過ぎる景色や人々は、まるで読みながらうとうとしたときに見た夢なのではないだろうか?というような錯覚に陥ってしまうほどに輪郭の曖昧な描写が続き、本当に幻想のインド(もちろん夜)に迷い込んでしまったよう気になってきます。(須賀敦子さんの信じられないくらいの名訳もあって)

我々は、主人公の視界を襲うインドの白昼とインドの夜想を通り抜けて、「眠れない」という宿命が正常なことだと思い当たります。いや、眠れない夜の自分と、眠ったような昼の自分、そのどちらもが自分なのだということに気付かされるというべきか。

不眠を不運と嘆くことはないかもしれない。ほら、眠れない夜こそ、魂の活動時間なのかも。

合コンでの用例:
「夜更かしが罪だとしたら、ボクらは共犯関係だね。」

甘い夜になること請け合いです。(たぶん)

昼間は魂を眠らせておいて、夜更かしにそなえたいという人。夜更かしのおともはこちら。「夜を現存させるという罪」を犯す、ちょいワル文学



Book
インド夜想曲

著者:アントニオ タブッキ

販売元:白水社

Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2006年5月 4日 (木)

日本生まれ、資本主義育ち

iPod の新製品
ウイニングイレヴン*1の新製品
カメラメーカのフィルムからの撤退*2

これらのニュースを聴くたびにすかさず迷わず、獲物を見つけて急降下するハゲタカのごとくとびつく(購入する)友人がいる。周囲のみんなは彼のことを「資本主義の申し子」とか「物欲界の貴公子」とか「買いすぎくん」などと噂する。そこには「嫉妬」と「羨望」と「侮蔑」と、幾ばくかの「敬意」(その経済力!)が含まれている。

とはいっても、iPod もiMac も、コンタックスもPS2 でさえ持っている自分には、ホントはそんな風に彼のことを揶揄することはできないし、みんなだって「ヴィトンの新作」とか「倖田來未の新曲」とか「日産の新車」とかが出るたびに「欲しい」か、もしくは「買っちゃう」わけだから、つまり言ってしまえば、みんな「資本主義の申し子」なのであって、もっというと「資本主義教」の敬虔なる信徒なのである。

温故知新ならぬ温新知新。

「新しきをあたため、新しきを買う。」この唯一にして、絶大なる教典に従い、今日も無為な消費活動に明け暮れるのである。

シカゴという街を舞台に、通り過ぎゆく人々や荒廃した景色を通して、いまはなくなってしまったものたちへの哀愁や、シカゴの街そのものに対する郷愁を綴ったスチュアート・ダイベックの「シカゴ育ち」。*3

短編と短編との合間に差し挟まれた1、2ページのショートショートの中に「なくしたもの」という作品がある。子供のなくしものが番組が終わる前までに必ず見つかってしまうという子供向けのラジオ番組を聴きながら、主人公は、なくしたものについて考える。

---シカゴ育ち「なくしたもの」より
誰かが何かをずっと欲しがっていたなら、自分のものになったことはなくても、やっぱりそれはその誰かのものじゃないだろうか。そしてそれは、なくしたものじゃないだろうか?
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自分が「欲しい」と思っているものが、以前所有していたものかもしれないと思うことができれば、「欲しい」という欲望の本質を見ること可能かもしれない。また買わなければならないほど、それを欲しっているのか?と。

---シカゴ育ち「夜鷹」より
女を失って、彼は知った。永遠とは、何かがあることではなく、ないことなのだ。
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欲しいという気持ちが購入という行為でしか充足され得ないのは、こういうことです。たんに「ない」という状況に我慢ができないだけ。

合コンでの用例:
「ヴィトンもBMW も、なくしちゃったんだよね。」
(遠い目)

うそつき呼ばわりされないように注意が必要です。

ゴールデンウィークを利用して仙台の友人のところに遊びに来ています。来る途中、高速道路の大渋滞に巻き込まれ、到着するのに9時間(普段なら5時間半くらい)もかかりました。「1日を無駄にした。」という感覚に陥りながらも、そういう風に思うこと自体が、資本主義教の教えに端を発っしているのだと思ったりしました。

通り過ぎ行く景色をみつめることの大切さを再発見したい人はこちら。(図書館でもいいけど)

シカゴ育ち Book シカゴ育ち

著者:柴田 元幸,スチュアート・ダイベック
販売元:白水社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

*1 年に二回は新製品がリリースされるコナミの大人気サッカーゲーム
*2 デジタルカメラの影響で各カメラメーカはフィルムからの撤退を余儀なくされている
*3 例によって柴田元幸訳

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2006年5月 1日 (月)

鍵のかかった部屋

自殺願望があると言って憚らない知人の女性と一緒にお酒を飲んでいて、我慢ならないので、とりあえず死ぬ前に一本電話をかけてくれとお願いしたら、「ヤダ」と言下に断られてしまったことがある。10代のときのことだ。

まだ生きてるその女の子がこれから先もお酒を飲んだ席で、そんなデリカシーのない発言を口走ろうものなら、綾小路きみまろのごとく率先してサディスティックに罵ってやろうと思っている。思ってはいるが、それにしても「死ぬ前に電話してくれ」なんてお願いは傲慢だったと反省している。

それまでは、だれかが「もうダメだ」と思う寸前に「コイツの厄介になってみよう」なんて思ってもらえるような生き方がしたいと思っていたのだけれど、そんなの毎日それなりになんとかやりくりしている側の言い分なのかもしれないと気づいたのだ。

そう「もうダメだ」なんて思ってるくらいなんだから、ほとんど周囲の諸関係に救いの手を求めることは不可能であって、「助けられる」なんて考えが大間違い。もっというともつれた諸関係の一因に自分が関与しているかもしれない。となると、「とりあえず電話ちょうだい」なんて、単なるポーズ、自己満足に過ぎない。効き目があるとすれば、キャバクラ嬢を口説くときくらいだと思いあたる。

うん、そう、モテたかったの。

というわけで、とにかく人を「助ける」なんて、そんな行為は恐れ多いことだとそれ以来思うようになった。人は基本的に「助けてもらいたい」じゃなくて、「役に立ちたい」んだよね。

鍵を持っていなければ、部屋には入れません。もしたまたま鍵が開いてたとしても、勝手に入り込むことが許されているわけではなくて、ちゃんとノックして用件を伝えて、許しを得てはじめて靴を脱いで部屋に上がれる。それが礼儀というもの。

「自分はだれかを助けたいんだ」なんていう漠然とした想いは、ドアを開ける権利が相手に委ねられていることを知らないが故の傲慢です。いつでもドアが開いてて、いつでも相手が困ってると思ったら大間違いだし、ややこしい話になってしまう。「困ってる人を助けようと思って家に勝手に上がったんです!」なんて。

そういう勘違いが劣等感とか抑圧を生むんじゃないかと思う。

合コンでの用例:
「君の心の鍵。さっき鍵屋で合鍵つくってきちゃった。」

さて、女の子を思いっきり引かせるというのもひとつの手口です。

とはいっても、鍵のかかった部屋には入りこむ余地すらないのだということ、というかその前にドアを見つけることの困難を思い知るにはこの一冊。ポール・オースター著「鍵のかかった部屋」(柴田元幸訳)

Book 鍵のかかった部屋

著者:ポール・オースター
販売元:白水社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年4月28日 (金)

労働してるからってそれがそんなに正しいとは思えないわ

格差という問題を考えるとき、前提として成立しているのは「経済的に豊かな組」と「経済的に貧しい組」という定義です。よって格差を問題視し「格差をなくしましょう」という場合、「勝ち組(豊か)」というグループと、「負け組(貧しい)」というグループを定義して、そのグループ間の距離を縮める方法について模索します。(便宜的に「勝ち組」と「負け組」という言葉で表します。)

この「勝ち組」と「負け組」という関係に見落としがちなのは、その構成が「勝ち組」の側から「お前らは負け組じゃぁ!」とか言われて発生しているわけではなくて、むしろ「いや、うちら負け組なんでもう少し優遇してくださいよ。」といったような「負け組」側からの訴求によるという点です。

そもそも「勝ち組」に所属する側は、マリー・アントワネットの「パンが食べられないならケーキを食べればいいのに。」発言よろしく、もともとそれが普通の状態なのであって、「負け組」とされるグループが「負けました」と白旗をあげたときに初めて「勝利」した側にいることに気付くことになるのです。

つまり、「勝ち」とか「負け」という関係を強化しているのは「勝ち」側の押しつけなのではなくて、「負け」と定義されている側の敗北意識そのもの、それは経済的に豊かではないという事実が、すなわち「敗北」を意味する社会体制の容認に他なりません。

といっても「敗北している側の自己責任だ」というようなことが言いたいわけではありません。思うのは、もしかしたら「経済的な豊かさ」というのは「過剰な豊かさ」でしかないという点、それとその所与がすべからく「労働」に依存しているという点です。そこに一考の余地があるように思うのです。

1960年代後半、全世界的な学生達による革命機運の中で、当時のフランスの若者達に圧倒的な支持を受けた青春小説の名著ボリス・ヴィアン「日々の泡(うたかたの日々)」では、「労働」は忌避すべきものとして描かれています。

ヒロインのクロエは物語中盤、肺に睡蓮が咲くという謎の病気を患いますが、その病気の原因は「労働」を目撃してしまったことです。かわいくて才気あふれるクロエが病気にかかる寸前、主人公コランと交わす会話は「労働」を自明のこととして「勝ち組」に所属しようとする意思を抱える(意識してようとしてまいと)現代の若者達への辛辣な警句として受け取ることができます。

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クロエ:
労働してるからってそれがそんなに正しいとは思えないわ

コラン:
労働は正しいと聞かされているんだ。一般には正しいと考えられているし。でも、実際はだれもそんな風には思ってない。習慣でやってるんだ。正確に言えば、そんなこと考えないぐらいだよ。 − 中略 − 彼らは労働せずに生きられる機械をこしらえる労働をしないで生きるために労働しているっていことなんだ。

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だから労働するなって言いたい訳でもありません。

必要なのは「労働」を揚棄し「勝ち - 負け」の関係性そのものを解体しようという試みです。「勝利」という結果に満足を感じない、さらに「負け組」に甘んじる勇気がある。そういう人達が繋がれるコミュニティがあれば、そもそも「格差」というのはきっと生まれないような気がします。

それを標榜できるなら、スタート地点が「働きたくない」というのでも、とりあえずはいいと思う次第です。

そう、「今朝も仕事いくのヤダなぁ。」だけのことかも。

合コンでの用例:

「勝ち負けの関係から一歩抜きん出た存在なんだよね。オレ。」

さて、コランとクロエ(付け加えるならば、ダメなシックとかわいそうなアリーズ)の迎える恋愛の結末について語ってしまうのはヤボ。いままさに労働に関与しようとしている方も、すでに労働してしまっている方も、「労働なんてしたくねー。」と率直に思っていたあの頃のことを思いだしつつ、うたかたの日々を振り返ってみては。

日々の泡

Book

日々の泡

著者:ボリス ヴィアン

販売元:新潮社

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2006年4月24日 (月)

エビちゃんがいけすかない理由

そのタイトルが意味するようにように、本サイトは自らが主体的に「いけすかない」存在になることを目指したサイトです。自ら「いけすかない」存在になるというこの行為を指して「イケスカナイズ」と命名したわけですが、いけすかない化するというのは別に「斜に構える」ことでも「アイロニーな態度」でもなくて、単にその「いけすかない」という言葉を発する、発語者の背後にある「嫉妬」や「羨望」といった感情を浮き彫りにすることであり、それはだれのものでもなく発語者自身の、もう一つの負の側面であることを意識させるということが狙いです。

注意が必要なのは「いけすかない」という言葉が、単に「腹立たしい」とか「ムカつく」とか「怒髪天」(死語)といったような絶滅思想的に対象を根絶やしにしてしまえば事足りてしまうような暴力的な感情ではないとうことです。「いけすかない」という感情には、前述したような対象に対する「嫉妬」や「羨望」、そして真っ向勝負しても敵わなそうというようなある種の「卑屈」さのようなものが伴います。つまり「いけすかない」の対象は、日本代表の宮本のような類いまれなキャプテンシーやら、「うん、もう笑ってくれてるだけでいい」とか(主に男性に)言わせちゃうエビちゃんの美貌のように、簡単には手に入れられないナニかを所有しているという条件が必要です。

それは、「ムカつくからぶんなぐって解決してやろう」というような勧善懲悪的な二元論の延長線上にあるものではなくて、「宮本?プレイはいいけどねぇ」(サッカー選手だぜ!?)とか、「エビちゃん?うーん、あと3年くらいじゃない?」(いま輝いてんだもんいいじゃん!)といったような、複雑に絡まっていて他人にはうまく説明できそうにないけど、とにかく「オレ(ワタシ)はなんかムカムカするんだ。」(趣味判断)という種類の感情です。

しかも誤解してはいけないのはこの、単に「手に入れられない」から「いけすかない」のではないということです。

この感情が巧妙なのは、主体となる自分が「手に入れられない」という事実を決定的に思い知る直前、挫折する前の段階の感情だということです。主体性の敗北が眼前に迫る状況において、「この問題とは真剣に対峙しないように!」と無意識下の自我が自己防衛のために発する心的プロセスであり、精神の安定をもとめたタナトスによる防衛機能なのです。

さて、わかりづらく冗長な説明でしたが、要約すると「いけすかない」という態度の決定は、「ムカつく」とか「腹立たしい」といったような対象に対する本質的な嫌悪そのものなのではなく、自己を客観的に見つめ直すという作業からの韜晦のための、自己防衛のための心的作用だということになると思います。

対象に対して「いけすかない」という感情を抱くとき、すかさず対象と自分との間にある客観的な関係について問い直し、見つめ直すこと、そうしたとき、自己ははじめて実存的な飛躍(命懸けの飛躍)を果たすことが可能になるのだと思います。それは「いけすかない」という感情が発露されたときにのみ有効です。さらにそれは不可逆的な運動であり、その運動こそが、主体的な人間(大人)になるための唯一の運動ではないかと思う次第です。

率先してイケスカナイズされることによって、他者を主体的な他者として扱うということ、まさにカント的視点に根ざした態度です。

合コンでの用例:
「とりあえず、二次会オレんちね。」(実存的な飛躍)

「いけすかない」という感情を抱く自己にこそステレオタイプが潜んでいること、それらの不適当な感情こそが社会の弊害なのだということ、それらを洒脱な視点と明晰な筆致で浮き彫りにしてみせたのは80年前。スコット・フィッツジェラルド著「グレートギャツビー」。読んでいる最中も、読み終えて本棚に並んでも、読んだという事実でさえ!最強の「いけすかなさ」。その「いけすかない」という感情の背後に、あなたの飛躍が鍵が隠れてることは保証します。

グレート・ギャツビー
Book グレート・ギャツビー

著者:野崎 孝,フィツジェラルド

販売元:新潮社

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2006年4月20日 (木)

ちょいワル文学

モテを考察するということになると、なんといってもキーワードは「ちょいワル」である。「ちょいワル」が「ちょいモテ」。いや、もとい「かなりモテ」である。

で、「ちょいワル」といえばイタリア人パンツェッタ・ジローラモということになるのだけれど、そう、もっと言うとキーワードはイタリア人。イタリア人にはちょいワルが多い。

さて、そういう意味でいうと今日紹介するこの本も、「ちょいワル」ということになるだろう。なにせイタリア人の小説家が書いている。アントニオ・タブッキ著「供述によるとペレイラは」。いうなれば「ちょいワル文学」である。

まず、タイトルからして「ちょいワル」である。

これが「容疑者ペレイラは」となると、「かなりワル文学」ということになってしまう。「被疑者ペレイラは」でも、少し悪い感じが抜けない。火のないところに煙は立たない理論が働いてしまうせいである。ゆえに、ちょいワルの条件をクリア。

ページを開くと、のっけから供述スタイルで始まる。

供述によるとペレイラは、小さい夕刊専門の新聞紙の文芸欄を担当している中年のジャーナリストということだ。さらに、詳しく供述を聞くと、肥満、髪の毛頼りない、持病持ちということらしい。肥満でハゲはじまっているという点、この辺りも「ちょい身体悪い」、略して「ちょいワル」である。

さらに、供述によるとペレイラは、奥さんを病気で亡くして以来、すっかり元気をなくしてしまい慢性的な倦怠を感じているということである。この場合は「ちょいダル」ということになるが、一字違いはご愛嬌だ。

さらに、供述によるとペレイラは、若くて聡明な女性に翻弄されて、政治的な活動に足を踏み入れつつあるいい加減(ちょいワル)な青年に過去の自分を投影して感情移入してしまうという始末。もはや判断力まで「ちょいワル」である。

もう、これだけ書き連ねれば、いうまでもなく「ちょいワル文学」といってさしつかえなさそうだが、まだある。

一番気になるのが、このペレイラがどういった状況で、だれに対して供述しているのか?ということがまったくもって不明瞭であるということだ。もはや、小説の構造自体も「ちょいワル」なのである。

さて、これら上述した諸状況から鑑みるに、この作品が「ちょいワル文学」以外のなにものでもないことは、これを読んでくれた皆様におかれましても、なかんずく同意していただけるところではないかと思う次第である。

合コンでの用例:
「最近は、ちょいワル文学かな。」(悪ぶって)

なお、イタリア人の作家タブッキが書いたと説明したけれど、小説の舞台はファシズムが台頭せんとする時代のポルトガルです。なので「ちょいポル」ってことにも・・・。って、もういいか。

小説の本筋は、過去にとらわれた中年の男性が、活動的ではあるが無知で無思慮な若者に出会い、そこに若かりし頃の自己を投影することで、過去によってスポイルされてしまった現在との決別(魂の開放)を実現していく物語と捉えるのが正当でしょうか。(暴力的に要約するとすればですが)

「供述」という特殊な叙述スタイルが取り入れられているのも、ひとつにはテーマとなっている「魂(未来)」と「肉体(過去)」との対峙において、「肉体」から開放された「魂」が、客観的に過去を物語っていると考えることもできそうです。とはいっても、訳者あとがきの須賀敦子(もちろん名訳)の解説によると、書かれた背景には既得権益にまみれたイタリアの政治の頽廃に対するサタイアであるというようなことも書かれてたので、その辺は読み手の想像力にお任せしたい。

ただし、大人になるにつれて体制に対して従順になりつつある我々の精神へのささやかな風刺であるということは間違いなさそう。ちょいワルも、かなりワルも、本当の大人になりたければこちら。




供述によるとペレイラは…

Book
供述によるとペレイラは…

著者:アントニオ タブッキ

販売元:白水社

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2006年4月19日 (水)

国家の品格、日の名残り。

いろんなところで「もっかい武士道とかいうのはバカげてる」みたいな話を聴いていて、それは確かにバカげてるなぁと思っていたのだけれど、ちょうど「品格」について書かれた小説のことを紹介しようと思っていたので、一応読んで見た。藤原正彦著「国家の品格」。(立ち読み)

数学者として大成しないことの反動で「論理じゃなくて武士道」みたいなことが書いてるのか(そういう言及を各所で読んだ気がする)と思いきや、「論理も大切だけど武士道」というようなことを言っていて、しかももっと要約すると、「情緒を養うために本を読め」「数学も勉強しろ」「戦争はするな」というようなまともなことが書かれてた。警句的なんだけど、ページ数が足りないせいで説教臭い。

読んでいて思ったのが、著者の藤原正彦は、単なる「新書」のつもりでテキトーに書いたんじゃないかということ。そしたらなぜだか「すっごい売れちゃった」。「ボクがモテないのは、まわりの女性の目がおかしいから」なんて、国家について、しかもその「品格」について書いた文章で、そんなことを言うくらいだから、相当軽いノリで書いたんじゃないだろうかと思う次第なのです。 

読み終えた感想は、別に買ってあげてもよかったかな・・・というような反省。でも、正直2回は読まないので買わない。(すいません)「ベストセラー作家になったら突然モテはじめた」みたいな顛末について本を書いてくれたら、それはきっと買わせていただこうと思います。

さて、オススメの本命は、おなじく「品格」について考える一冊。カズオ・イシグロ著「日の名残り」について。

由緒あるお城の由緒ある執事として「品格」を追求した日々のメモワール。

さすが執事。話が脱線するにもいちいちくどくどと、うざったい説明を読者に断った上で、「ある日の父について」なんか語り始めたりする。(しかもなかなか止まんない)それで、その冗長な語り口ながらも、主人公がこれまでの執事の歴史や過日の出来事を振り返りながら、「品格」の本質に迫ろうとする試みだということに気付く。

それで「品格」について考えながら読み進めると、「品格」の追求の書とみせかけておいて、過日の淡くそしてほろ苦いロマンスの思い出にたどり着くというヅッコケぐあい。(確信犯)

「新しい主人がアメリカの方だから最近はラジオでユーモアについて勉強してる」なんていう告白まで飛び出す。さすが執事。まるで成績優秀な高校生が、人並みにモテたいからと、真剣にホットドッグプレス(休刊)を読むようなかわいらしさを垣間見る。

ただし、そこはかとないユーモアの裏に「品格の追求」が「応答=責任」という他者への追従型の行為であること、またその盲目的な追従が「自ら選択する」という判断力を失わせてしまったという自己批判を潜ませます。

以前には間違いなく存在していた「品格」が、現代においては成立しないことへの警鐘であり、さらに残念ながらそれ(品格)を取り戻すことが解決策ではないことを伝えようとしているとも言えます。

少なくとも「国家の品格を取り戻しましょう」なんて安易にはお話できないことだけは確か。

合コンでの用例:
「ホットドッグプレスが休刊しちゃったから、最近はドストエフスキーを読んでるよ。」

さて、「国家の品格」を読んで品格を取り戻したいと思われた方も、武士道なんてダサいという方も。こちらです。「品格を取り戻す」なんて大義じゃなくて、「ラジオで主人の笑わせ方を勉強する。」みたいな遠回りが滑稽で微笑ましい。「いまどき文学でモテ方を勉強する。」っていう本サイトのコンセプトにぴったりです。土屋政雄さんも名訳。

日の名残り Book 日の名残り

著者:カズオ イシグロ
販売元:早川書房
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2006年4月18日 (火)

アメリカの自家撞着、あるいは「宮殿泥棒」

アメリカの小説家が、今日もアクチュアルな作品を書き続けているのには、ひとつに「戦争をしている国に住んでる」という当事者意識のようなものが、あるからではないかと思います。小説家が小説を書く動機に、これほど正統かつ真っ当な問題というのはないような気がします。

そういう意味でいうと、日本人の作家における「文学」の困難というのがあるはずですが、それについてはまた今度。今日は、アメリカの作家イーサン・ケイニンの短編集「宮殿泥棒」について。

いつかは自分が所属する会計事務所の共同経営者になることを望む堅実な会計士が、目の前のビッグチャンスを目前にして、「ソックスを盗む」という暴挙によって、急遽その話をなかったこととしてしまう中編「会計士」。

面白いのは、主人公が論理的な行動によってチャンスをなかったこととしているのではなく、ほぼ衝動的に「ソックスを盗む」(あこがれのメジャーリーガーのものという設定)という理不尽な行為によって、商談をなかったことせざるをえない状況を作ってしまっていることです。物語の最後は、主人公が、その衝動(盗み)について考えながら、自分が夢見ていたような共同経営者になれそうにないことを思い、これまでの人生で手にしたものと、手にしなかったものについて思いを巡らせながら話を終えます。

これは論理(理性)に衝動が先行している点において、自我の問題と言えるような気がします。主人公は「共同経営者になりたい」=「堅実に生きたい」というような理想(周囲の期待なども含む)を、それなりに体現してきたにもかかわらず、一瞬の衝動によってそれを拒否します。これは、理由や論理というものを超えたところで、「理想」に近づくことを拒否したととることができます。

アメリカは「民主主義を求めたら戦争してた」という自家撞着を抱えていますが、この作品の場合は、理由もなく、さらに後悔までしつつも「理想を求めない」という選択をしています。つまり、衝動的に戦争を回避したということです。

おなじことが表題作の「宮殿泥棒」にも言えます。

長らく教育に携わってきた歴史の高校教師が、いつかは校長の座につきたいというささやかな理想を抱きながら、権力のある政治家の息子として転校してきた愚鈍な生徒との交流の失敗(これもうまくやり通すこと可能だった)を経て、最終的に同僚との権力争いに破れるという話です。こっちも自分で失敗の種を蒔いておいて、そのことに後悔しているというシニカルな終わり方をしますが、自ら「失敗」を選択しているという点からみて、上述した「会計士」と同じ終わり方です。

以前は擁護していた同僚が急に態度を変えて校長の座についたことを指して「宮殿泥棒」というタイトルを冠していますが、権力を奪取する立場について考えた場合、宮殿を盗んだのはもちろん「アメリカ」的なものを表象しているなにかであることは間違いありません。

合コンでの用例:
「健全な生き方っていうのを追い求めてたら、この合コンに辿り着いたんだよ。」

さて、紹介した作品の他にも2編収録されていて、それらもオススメです。「アメリカの自家撞着」といううがった見方をしなくても、充分に楽しめるのは、例によって柴田元幸訳だから?ちなみに、訳者あとがきの柴田元幸は全然違うことを言っているので、そちらもどうぞ。

宮殿泥棒
Book 宮殿泥棒

著者:イーサン ケイニン

販売元:文藝春秋

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2006年3月31日 (金)

リーダーフレンドリーという落とし穴

仕事の関係で、教育関連資料の構成を決めたり、関連資料の事前レビューをすることがあるのですが、最近時流で動画コンテンツのレビューという業務が舞い込みます。この動画コンテンツのレビューというのが、いままでの紙ベースの資料のレビューに比べると格段に楽チンなのです。

なぜか?

当然のことですが、動画の方が断然分かりやすいのです。「敷居が低い」と、端的に言えばそういうことでしょうか。覚える言葉が多すぎるような種類のものを除いては、「あれがこうなって、これがこうなる。」なんていう情報は、文字で読むより、動画でパパッと見た方が断然理解しやすいようです。

それで思ったのですが、動画コンテンンツを作成するアプリケーションの価格が下がってきていることと、アプリケーションのユーザビリティの向上なんかから考えても、今後その手の動画コンテンツというのは、ネット上に加速度的に普及していくような気がします。

ここで注意しないといけないのは、「わかりやすさ」というのが「読解力」をスポイルさせるということです。映画やテレビは、民族のイデオロギーの形成に大きな影響を及ぼしました。動画コンテンツが、さらに普及していくようであれば、その先に考えられるのは、テレビや映画が及ぼしたそれに似た状況なのではないかと思います。

合コンでの用例:

「簡単に手に入るものに価値なんてないだよ」

ちなみに、と言ったのは村上龍です。

本が読まれなくなりつつあると、言われていますが、価値のある情報が「本」というメディアを媒介にするかどうかはわからないので、その言説自体を否定はしませんが、価値のある情報が一番最初に具現化されるのは「活字」以外にはあり得ないと思います。

オススメは、ミシェル・フーコー「監獄の誕生」。 自分たちが享受している恩恵が、まず自動化された権力だという認識を持つ必要性を感じています。



Book
監獄の誕生?監視と処罰

著者:Michel Foucault,ミシェル・フーコー

販売元:新潮社

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2006年3月28日 (火)

フランキーが母に捧げた

フランキーが母に捧げた本を立て続けに読み終えました。

フランキーが母に捧げたとかいうと、かなり高い確立で、
リリー・フランキーの「東京タワー」を思い浮かべられそうですが、
それだけではなくて、フランク・マコート(アメリカ)という作家が
書いた、「アンジェラの灰」と「アンジェラの祈り」という小説を
連続して読み終えたのです。

奇しくも、どちらの作品も母に捧げられた「フランキー」による本
なのですが、たまたま読み終えてから、そのことに気付きました。

しかも、ジャパンのフランキーが九州のさびれた炭坑街出身なら、
アメリカのフランキーは、アイルランドのさびれたダウンタウンの
出身。さらに、ジャパンのフランキーが10代で東京に出れば、
アメリカ(アイルランド)のフランキーは、10代半ばで、
ニューヨークに出奔。

両作品のプロットだけを比較したら、どちらかがパロディとして
書き直したと思われるほどの類似点。他にもいくつか似ている
プロットがあるのですが、これから読まれる方がいらっしゃるかも
しれないので、この辺まで。

さて、じゃぁ、これだけ似ていたらどちらもよい作品なのだろうと
思われるかもしれませんが、その本の文学的価値を比較しよう
ものなら、片一方は、ダメな見本として比較されるという点において
のみ、ぎりぎり価値を見いだせるくらいのもので、全く持って足下
にも及ばないと言えそうです。

さて、どちらが素晴らしかったか。

フランク・マコートの「アンジェラ」は、読み終えて、ひさしぶりに
小説のもつ効用というものを思い知らされた気がします。

そもそも小説というのは、毎日の訪れる日々の雑事の尊さを
気付かせ、生活することの困難とそれを乗り越える力強さを
援護し、邁進する力を与えてくれることではなかったか・・・と、
小説がよって立つところの当たり前の存在理由を、あらためて
再認識させられました。

本屋にいくたびに、素晴らしいから売れるというわけではない
という現実を目の当たりにする、憂うべき状況。

合コンでの用例:

「東京タワーなんてさ、悲劇に見舞われないオイディプス王
 みたいなもんだよね。」

さて、なんでオイディプス王なのか?というのは、いつか機会が
あったら説明するとして、オススメは、前述の2冊です。
「東京タワー」が面白かったという人にも、そうでない人にも、
オススメいたします。

灰の方を読み終えてから、続編の祈りをお読みください。




アンジェラの灰 (上)

Book
アンジェラの灰 (上)

著者:フランク・マコート

販売元:新潮社

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アンジェラの祈り

Book
アンジェラの祈り

著者:フランク・マコート

販売元:新潮社

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ジャーナリスト宣言

 言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。
 それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。

朝日新聞社のジャーナリズム宣言だそうです。
なんとなく違和感を感じるのは私だけでしょうか。

そもそも言葉が、感情的で残酷なことや、たまに言葉が無力
だったりすることはみんな知っている気がします。ケンカで殴ら
れたりするより、変なうわさを流される方が、よっぽど厄介だし、
「それはウソだ」なんて言葉が、そう簡単にはみんなに信じて
もらえないことを、だれよりも現代の若者は知っている気がします。
(どちらの側にいたにせよ。)

ただしこの場合、言葉は使い方によっては「無力」だし、使い方に
よっては「暴力」だということになるはずです。

 言葉は感情的で、残酷で、ときに暴力だ。
 だから、私たちは注意しなければならない、言葉のチカラを。

言葉の怖さを認識して、正しいジャーナリズムを目指すなら、
言葉は、感情的で残酷で、使い方を誤ると暴力です。なので、
我々は、言葉の使い方を注意します。こっちの方がよっぽど
誠実だと思うのは、私だけでしょうか。

用例:

「ってかさぁ、メールの自分の名前の前に@とかつけねーよなぁ。」
(民主党の一連の騒動について、クールに一蹴する際)

言葉のもつ暴力と誠実さについて考えなおしたい人は、一緒に
シェイクスピアついて語り合いましょう。オススメは「ハムレット」
。特に白水Uブックスより発刊されている、小田島 雄志訳を
推奨。



Book
ハムレット シェイクスピア全集 〔23〕 白水Uブックス

著者:小田島 雄志,ウィリアム・シェイクスピア

販売元:白水社

Amazon.co.jpで詳細を確認する

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