「不在の物語」、あるいは「未亡人の一年」
構造主義の人ロラン・バルトの写真論「明るい部屋」は、哲学書であるだけでなく、亡くなった母へ捧げられたオマージュでもある。この本のなかのロラン・バルトは、哲学者というよりも、「実際の母」と、写真が写し取った「若き日の母」という二重の不在に胸を打たれてた、単なる寂しがりやの息子という態だ。
あのクールな構造主義の人がこれほどまでに自己をさらけだし、寂しがりやの息子だということを露呈してまで写真の記号論について書き記したのには、亡き母のために一冊の本を捧げるという意図ももちろんあっただろうが、それ以上に、個人的な体験に基づいた特定の一枚の写真(若き日の母の写真)を物語る以外には、写真の持つ記号論的意味を浮き彫りにすることも、そもそも「写真」一般について語ることも、不可能だということを知っていたためだろう。
そういう意味でいうとこれは、哲学書でありながら、かつ「不在の物語」ということになる。
さて、おなじように「不在」の物語性について書かれた、ジョン・アーヴィングの「未亡人の一年」について書きたい。
この小説も、「不在の物語」と言える。あるいは、より正確にいうと『「不在の物語」の物語』ということになるだろう。「物語」の物語とややこしく言ったのは、登場人物たちの職業がことごとく作家のためであるが、「不在」のもつ物語性が、物語全体の主軸に沿えられている。(数多くの作家が登場するアーヴィングの小説だが、この小説にいたっては、4人もの作家が登場する。)
主人公のルースは、死んでしまった兄たちの夥しい写真に囲まれた家で育つ。が、ある日、二人の息子を失い途方に暮れつづけた母マリアンは、その写真とともに家を出て行ってしまう。残されたのは、作家である父と幼いルースと、母のつかの間の愛人エディ。
物語はそのようにしてはじまる。
主人公のルースは、消えてしまった「兄たちの写真」にまつわる物語をでっちあげることによってなるべくして作家となる。作品内に登場するルースの作品は、後述する、エディやマリアンの小説のように決して「不在」に捕われた作品ではないが、作家の継起そのものが「写真」=「不在」であることからいって、「不在」の物語と言えるだろうし、実際ルースは、作品の出版や人生の継起のごとに「母」の出現を期待している。
また、ルース以上に、「不在」に憑かれているのが、ルースの母マリアンとマリアンのつかの間の愛人エディである。
エディは、「若かったマリアン」(知り合ったときはすでに39歳)と「実際のマリアン」という二重の不在に苛まされながら、年上の女性しか愛せない男を主人公にした小説ばかり(というか不在に捕われているのでそれ以外は書けない)を書いて、作家となるし、同様に、幼い娘をおいて失踪してしまった母マリアンもまた、失った「息子たち」の思い出と、不在の刻印を残酷に刻み込んだ「写真」に囲まれながら、まさにロラン・バルト的な二重の不在に苛まされたまま、行方不明者課につとめる女刑事を主人公(文字通り「不在」苛まされている職業である)にした、小説を書いて作家となる。
すでに登場した時点で作家だった父テッドについては、「不在」そのものが作家の継起にもなっていないし、「不在」に苛まされているというわけではないが、描かれた作品はすべて、本来「いるべきでないもの」が「いるかのような」、まさに「不在」にまつわる作品である。
単なる「不在」をテーマに物語を紡ぐ(そういうテーマに基づいた素晴らしい作品はたくさんあるが)のではなく、『「不在」をテーマに物語を紡ぐ作家たちの物語』と、物語の構造を深化させるジョン・アーヴィングの技術には、脱帽するばかりである。
合コンでの用例:
「この世の中は、「不在」が多くの物語を紡いでいるんだよ。」
ジョン・アーヴィングの小説の多くで、登場人物たちが、あっさりと死んでしまったり、そしてまた多くの登場人物たちが職業的な作家となるのは、不在が物語りの継起となるということが、小説の世界に限らず、我々の生活においても、歴然とした事実として存在することを伝えるためなのではなかったか。
とはいえ、時代錯誤的な全体小説の様相を呈したジョン・アーヴィングの小説を、たったひとつのテーマに基づいて読み解くなんてもったいないので、読まれる方は、それぞれの楽しみ方をするべきである。必読の古典的現代小説はこちら。
![]() | 未亡人の一年〈上〉 著者:ジョン アーヴィング |
参考までに、ロラン・バルトの感動的な不在にまつわる哲学書も。
![]() | 明るい部屋?写真についての覚書 著者:ロラン バルト |
| 固定リンク











最近のコメント