2006年5月25日 (木)

村上春樹の時代的必然、あるいは「スプートニクの恋人」

村上春樹の長編小説の共通点といえば、必ずといっていいほど、大切な人が突如としてどこかに消えてしまうことである。ほとんど前触れもなく、理不尽に、ときには非現実的に、こつ然と消え去ってしまう。

主人公は、失踪してしまった大切な人を探すべく東奔西走するわけだが、大体の作品においてそれは徒労に終わってしまう。もともと消え去ってしまうには、消え去ってしまうだけの必然的な理由があることは、主人公もハナから気付いているか、もしくは少なくとも予感しているのだ。

さて、村上春樹の小説のもうひとつの共通点は、主人公が「既製のコミュニティに所属していない」という点である。主人公は、職業的な意味や、社会的な位置づけとして「教師」であるとか「学生」という身分に所属していることがあっても、本質的な意味においてそのコミュニティの成員たらしめていないし、またどのような既製のコミュニティにも参加を希望していない。

言い換えれば、村上春樹は、コミュニティに所属することの違和感そのものを、小説自体の推進力にしている。デビュー作である「風の歌を聴け」から、最新長編の「アフターダーク」まで、これは本当に終止一貫している。

さて、これら二つの大きな共通点からみて、村上春樹の小説は「喪失」と「孤独」が大きな「テーマ」といえるわけだが、だからといって、村上春樹の小説を読むたびに「人間というのはなにかしらを喪失しながら孤独に耐えて行かなければならないのだなぁ」というようなステレオタイプに帰結させたりすると、短絡的すぎて実りがない。

では、どのようにして「孤独」と「喪失」という主題をテーマを読み解くべきか?それは、主人公の「孤独」と「喪失」に対する態度の変遷としてである。

「ねじまき鳥クロニクル」の出版後、4年のブランクを空けて出版した「スプートニクの恋人」は、その活動再開を高らかに読者に告げるかのように、村上春樹的比喩が横溢し疾走する書き出しからはじまる。村上春樹的にたとえるとしたら「世界中のツキノワグマの胸の三日月が満月になってしまう」かのような書き出しである。

ファンなら微笑を、毛嫌いする読者なら冷笑を浮かべているであろうことが、簡単に思い浮かばれてしまうくらいにその村上春樹らしさは、ブランクの後も変わることなく、泰然自若として存在しているのだが、まさに村上春樹らしい復活作であるその小説は、意外なことにそれまでの村上春樹の小説とはまったく異なった終わり方で幕を閉じる。

私はこの本を、村上春樹の本をはじめて読む人にオススメしたいので、その結末について、ここに書くことは控えるが、村上春樹の仕事をある特定の作品ごとで時代ごとに区切るのであれば、間違いなく「ねじまき鳥クロニクル」と「スプートニクの恋人」の間がひとつのターニングポイントなると思う。

その間の村上春樹の仕事は、2年の歳月をかけて翻訳した、アメリカで実際におきた殺人事件の、その犯人の実弟が記した手記、マイケル・ギルモア「心臓を貫かれて」であり、自身初のノンフィクションとして、テレビや既製のマスコミが報道しないサリン事件を被害者の側の視点で描き出した「アンダーグラウンド」である。

それはどちらも「不可避的でかつ絶望的な暴力」を取り扱った作品である。

村上春樹が小説家としてキャリアを再会するにあたり、この二つの作品が、小説家「村上春樹」に与えた影響はかなり大きいと推測する。

それは、その後に書かれたすべての長編小説「スプートニクの恋人」「海辺のカフカ」「アフターダーク」の結末が、それ以前の小説の結末とは違ってきているという点からみても、感じられる。

それまでが「孤独であることが喪失を免れるわけではない」という「絶望」を描いた作品(私は、それを時代的必然として擁護する)だったとすれば、以降の作品は「孤独」と「喪失」を描きながらも「絶望」以外のなにかを見出そうとする作品なのである。

もちろん、「絶望」以外のなにかとは、かすかで一縷の「希望」以外のなにものでもない。

合コンでの用例:
「オレさぁ、こないだ女の子にデートをすっぽかされた上に、あまりのショックで財布おとしちゃってさ・・・。」

孤独と喪失が、人生にはつきものであるということをユーモアを交えて示唆しましょう。

さて、「村上春樹の作品を読む」ということが、時代的必然であることは、私がいうまでもないことですが、「好き」とか「嫌い」とかいうまえにとりあえず全作品を読んでいることが大人の条件です。

もし、万が一、まだ読まれていないという方がいらっしゃったらこちらから。あなたの孤独があなただけのものではないことや、あなたに訪れる喪失があなただけのものではないことを、噛み締める一冊。

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2006年3月30日 (木)

村上春樹をとりまく分裂的状況

村上春樹が、チェコの文学賞「フランツ・カフカ賞」という賞を授賞したそうです。欧米で人気が高いだけでなくて、作品タイトルまで「カフカ」だったりするから、もはや順当とかいうよりも、予定調和といって差し支えなさそうな授賞ですが、日本でなくてチェコでの予定調和なのだから、それなりに価値はあると考えていいのでしょうか・・・。その賞のことをよく知らないのでなんとも言えないのですが、芥川賞ほど形骸化しているはずはないと踏んでいます。(希望?)

それにしても、日本における村上春樹の評価は、ずいぶん前からずっとずっと深刻に分裂的です。興味深く見てると、そういうムードになっている要因は、主に二つあるような気がします。

・ノルウェーの森が売れ過ぎたためにエンターテイメント作家
 として認識されている
・大量の村上春樹フォロワー(いわゆる「J文学」?)を多く産み
 落とした

といったところでしょうか・・・。前者も後者もつまるところ一緒といえば、一緒のような気がしなくもありませんが、前者は、文学というものに大体興味を持っていない人たちによるもので、後者はおもにアカデミックな立場の方々に多いような気がします。

いずれにしても、なぜか村上春樹に対する批判というのは、基本的に、趣味判断で「嫌い」と言っているような文章ばかりが目につくのは私だけ?でしょうか。

かといって加藤典洋みたいな批評家に擁護されるのも、それはそれで憂うべき状況ですが・・・。

合コンでの用例:

「とりあえず小説家としての評価は保留にしたとしても、翻訳家として
 村上春樹は、充分に価値のある仕事してるよね。」
(小説について、2,3 の警句的なコメントを求められた場合)

合コンで、村上春樹について言及する機会があるとは到底思えないけれど・・・。さて、村上春樹の書く小説が好きか嫌いかは別として、レイモンド・カーヴァーを日本語で読むには、村上春樹の翻訳しか読めません。村上春樹が、すくなくともそれなりに重要な仕事をしているということを思い知るのに、断然オススメです。



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