2006年5月31日 (水)

「健康で幸福」というまやかし、あるいは「体の贈り物」

ボクたちは生きている。

これが真実として、じゃぁ、ボクたちは生きているから幸福だろうか?

そんなことはないと思う。生きていることが、幸福の条件になってしまったら、死んでいった人たちも、これから死にいく人たちも、みんな不幸だということになってしまうではないか。それに、毎朝、起きて、あの呪われたような職場に出かけて行くことを、「あぁ、超ハッピー!!」なんて言えないではないか。(ボクはへらへら笑っている技術に長けているけど。)

「ボクたちは生きている。」

とりあえず、ここから始めてみるとして、次はどんなことが巻き起こるだろうか。

ボクたちは生きていて、そして、空気を吸う。
(空気という贈り物を授かる。)
ボクたちは生きていて、冷蔵庫に入った冷たい水を飲む。
(あるいは、水という恩恵に預かる。)
ボクたちは生きていて、かわいい女の子を視線の外側で追う。見てないふりをして。
(「かわいい」というのは、まぎれもなく神の恩寵である。)
ボクたちは生きていて、ヒドイ目にあう。たとえば、買ったばかりの傘をコンビニで盗まれたり。
(まさに、レ・ミゼラブル。)
ボクたちは生きていて、買ったばかりのスニーカーを履いた日に土砂降りに見舞われる。
(もちろん、ため息。)

要約するとこういうことになると思う。

「ボクたちは生きている。そしてときどき、思いも寄らない贈り物を受け取って、ときに泣いたり、ときに笑ったりする。」

そう、できる限り簡潔に言えば、そういうことになると思う。

「生きている」ということが、必ずしも幸福の条件だとは言えない。

レベッカ・ブラウンの「体の贈り物」について。

「体の贈り物」は、末期のエイズ患者の看護を仕事とするホームケアワーカーを主人公にした連作短編小説です。なんて説明すると、「あぁ、そういうの全然興味ない。」とか、「そういう重いの、いまはあんまり読みたくないんだよね。」という、ため息まじりの沈黙が聴こえてきそうだけれど、とにかくまずそう説明しないわけにはいきません。だれがなんといおうと、小説全体を覆う設定は否定しようもなくそういうことになっています。

それでも、少し詭弁を使っていいのなら、こうも言えます。これは、「贈り物」に関する小説です。我々の生活には、望むと望まざるとに関わらず圧倒的に「贈り物」に溢れている。いうまでもなく「贈り物」はいつだって、心躍るものです。

だからたとえば、ホームケアワーカーである主人公が、末期のエイズ患者に対して、ナイチンゲールなみの天使的な優しさを発揮して、無償の献身の果てにすべての患者達が清々しい死を迎えるみたいな、そんなヤボったくて重苦しい小説を想像していたらそれは幸いにも勘違い。

本書における「贈り物」のあり方は、実に多様です。

主人公から患者へ贈られる配慮という贈り物だったり。
患者から主人公へ贈られるシナモンロールという贈り物だったり。
お風呂のあとの患者の肌に触れる心地よい空気という贈り物だったり。(空気ですら贈り物なのだ。)
死以外には出て行くことができないホスピスから「自力の失踪」という贈り物だったり。(他の患者達のあいだで伝説になる。)
苦しむ幼なじみの友人に贈った、患者同士の「死」という贈り物だったり。(そこではもう「死」そのものですら、彼らを救済する贈り物なのだ。)

小説の後半に収録された「姿の贈り物」(各章は「○○の贈り物」というタイトル)のワンシーン。

毎日の生活に少しずつ言葉にはできない疲労を感じ始める主人公は、病床の患者の疾患をみて目をそらしながら、病床に臥す患者にむかって、残酷な思いを巡らせるシーンがあります。終止穏やかな調子を整えた小説の中にあって、そのシーンは、その残酷さゆえに、胸を打ちます。

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「でもあなたはそこで病気になったわけよね。そこから死にに帰ってくることになったわけよね。」と考えていた。そんな風に考える自分がすごく嫌だった。でも私はこう自分に言い聞かせもした — 私自身は正しいことを感じたり考えたりできなくても、とにかくこの人は食べ物を与えられているし、シーツも替えてもらっているし、キッチンを掃除してもらっているし、体に軟膏を塗ってもらっているじゃないか、と。
---「体の贈り物」より

ボクたちが、笑ったり、悲しんだり、楽しんだり、つまづいたり、怒ったり、苦虫をかみつぶしたり、貧乏揺すりしたり、舌打ちしたり、吐き気を催したり、ちょっと小躍りしたり、あくびをしたり、そのまま居眠りしたりできるのは、だれかから、なにかから贈り物を受けとっているからなのです。

合コンでの用例:
「ボクからの贈り物は、この笑顔と、この笑えない冗談だけだよ。」

本当に笑ってもらえないのだから、嘘つきでないことだけは伝わるはず。

さて、「健康で幸福だなぁ」なんていうのは、愛国心の育成と徴兵制を正常に機能させるために帝国主義が開発したまやかしだというようなことを明らかにしたのはたぶんミシェル・フーコーだったと思うのですが、とりあえず意中の女の子に素敵な贈り物を贈りたいという方は、こちら。

体の贈り物
Book 体の贈り物

著者:レベッカ ブラウン

販売元:新潮社

Amazon.co.jpで詳細を確認する

柴田元幸訳

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2006年5月27日 (土)

ミクシィの外側の国で、あるいは「最後の物たちの国で」

これはミクシィの外側のお話です。と彼女は書いていた。

アナタはしらないかもしれませんが、この国では政府のやり方は、いつも横暴なのです。最近では、駐車違反の取り締まり法が改正されるという噂で、街中がもちきりです。駐車違反の取り締まりを民間に委託するのだというのです。彼らは、駐車違反を取り締まるためだけに訓練された駐車違反取り締まりのエリートです。ずるがしこいけど、管理もずさんだったこれまでの担当者たちとはやり方が根本的に違います。有無をいわさずフロントガラスにステッカーを貼り、車のナンバーをデジタルカメラに納めるそうです。しかも、これからは運転者ではなく車の所持者に罰金を請求することにして、徴収率100%を目指すというのです。(アナタはびっくりするかもしれませんが、これまでは「逃げ得」といって3割の対象者が罰金から逃れていたそうです。)

ちなみにこの改正によって、予測では当局の駐車違反による収入はいままでの2.5倍程度増加するそうです。増えたお金がどこにいくかは謎ですが、天下り先企業との癒着がこれまで以上に深まることは間違いないというのが、この国の市民の大方の憶測です。

それにアナタはしらないかもしれませんが、この国でパチンコが「ギャンブル」の規定からはずれているのは、警察組織のOBがパチンコ業界に天下りしているからなのだそうです。あれはあくまでもパチンコの出玉で交換した文鎮を「古物商」に売って現金に交換しているだけなのだそうです。ワタシは、いっとき誤って普通の文鎮を持っていってしまい、すごく恥ずかしい思いをしたのです。この国では、ペーパーウェイトとしての「文鎮」と、特定の古物商が高く買い取ってくれる「文鎮」の二種類が存在するのです。

ほかにもあります。アナタはしらないかもしれませんが、おなじく法改正でこれからは自転車でも無灯火や飲酒運転は罰金をとられるのだそうです。しかし「もっと世の中に横行する悪行を取り締まってくださいよ」などと生意気な口をきいてはなりません。当局の連中は生意気な口はすかさず逮捕の構えです。もし「自転車、飲酒運転で逮捕」なんていう事態に巻き込まれたら、まぬけすぎて笑えないので、今後は一切の酒気帯び自転車運転を控えねばなりません。

本当は、ほかにもまだまだあるのですが、これ以上この国の理不尽について書き続けてもあなたの気分を害すだけだろうし、実際ワタシ自身書いていて気分が悪くなってきたのです。

でも、最後にひとつだけ言わせてください。このミクシィの外側の世界では、いまでもこのような理不尽なことが(数えきれないほど数多く)巻き起こっているのです。あなたはやさしい性格なので、ワタシがこのミクシィの外側の世界で四苦八苦していることをこの手紙で知って、もしかしたらこの国にやってきてしまうかもしません。でも、お願いです。どうかミクシィの内側から出てこないでください。外の世界にはロクがなことがありません。

ワタシが、無事にミクシィにログインできたらまたメールします。

合コンでの用例:
「仕事を退職したら、ミクシィで平穏無事な老後を過ごそうかと思っているんだよね。」

そのうち仕事とか食事の出前なんかもぜーんぶミクシィできるようになることを予見して。

ポール・オースター著「最後の物たちの国で」は、帰ってこなくなってしまった兄を探しに「最後の物たちの国」に入った妹のアンナの書いた手紙という形式をとった小説です。反ユートピア小説と一言で片付けてしまえる程に、「最後の物たちの国」は絶望的な国です。具体的な政府は表面的にしか姿を表しませんが、理不尽で怠惰であり(感情のない官僚組織)、人々は他人を傷つけてでも自分が生き延びることしか考えていません。主人公は、この国でなんとかぎりぎり生き延びて、その手紙を書くことに成功しました。といっても、国から逃れでることも、書いた手紙が宛先に届くことも保証されたわけではない点からいうと、それを「成功」といってしまっっていいかは、甚だ疑問が残るところですが。

この作品の前の作品「鍵のかかった部屋」が、「部屋の中に入れない」物語だとすれば、この作品は「部屋の外に出れない」物語として読み取ることができます。(実際「鍵のかかった部屋」でファンショーを探したまま行方をくらませてしまった探偵「クィン」のパスポートを主人公が拾うシーンがあるため、ファンショーの住む「鍵のかかった部屋」の内側の物語として読むことも可能かもしれない。)

我々が、自分たちを含む「国家」や「組織」や「社会」を批判するとき、その批判に含まれるのは、その外側に出ることのできないジレンマと、枠組みの中でなんとか生き延びようとする希望に他ならないわけですが、絶望に光明を見いだすことこそが人間らしさなのだとすれば、こことは違う「最後の物たちの国」に住む住人たちは、光を見つける能力に長けた人間たちといえるかもしれません。魂の漆黒の闇に光を見いだしたい人はこちら。(まごうことなき柴田元幸訳。)



最後の物たちの国で

Book
最後の物たちの国で

著者:ポール・オースター

販売元:白水社

Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2006年5月 4日 (木)

日本生まれ、資本主義育ち

iPod の新製品
ウイニングイレヴン*1の新製品
カメラメーカのフィルムからの撤退*2

これらのニュースを聴くたびにすかさず迷わず、獲物を見つけて急降下するハゲタカのごとくとびつく(購入する)友人がいる。周囲のみんなは彼のことを「資本主義の申し子」とか「物欲界の貴公子」とか「買いすぎくん」などと噂する。そこには「嫉妬」と「羨望」と「侮蔑」と、幾ばくかの「敬意」(その経済力!)が含まれている。

とはいっても、iPod もiMac も、コンタックスもPS2 でさえ持っている自分には、ホントはそんな風に彼のことを揶揄することはできないし、みんなだって「ヴィトンの新作」とか「倖田來未の新曲」とか「日産の新車」とかが出るたびに「欲しい」か、もしくは「買っちゃう」わけだから、つまり言ってしまえば、みんな「資本主義の申し子」なのであって、もっというと「資本主義教」の敬虔なる信徒なのである。

温故知新ならぬ温新知新。

「新しきをあたため、新しきを買う。」この唯一にして、絶大なる教典に従い、今日も無為な消費活動に明け暮れるのである。

シカゴという街を舞台に、通り過ぎゆく人々や荒廃した景色を通して、いまはなくなってしまったものたちへの哀愁や、シカゴの街そのものに対する郷愁を綴ったスチュアート・ダイベックの「シカゴ育ち」。*3

短編と短編との合間に差し挟まれた1、2ページのショートショートの中に「なくしたもの」という作品がある。子供のなくしものが番組が終わる前までに必ず見つかってしまうという子供向けのラジオ番組を聴きながら、主人公は、なくしたものについて考える。

---シカゴ育ち「なくしたもの」より
誰かが何かをずっと欲しがっていたなら、自分のものになったことはなくても、やっぱりそれはその誰かのものじゃないだろうか。そしてそれは、なくしたものじゃないだろうか?
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自分が「欲しい」と思っているものが、以前所有していたものかもしれないと思うことができれば、「欲しい」という欲望の本質を見ること可能かもしれない。また買わなければならないほど、それを欲しっているのか?と。

---シカゴ育ち「夜鷹」より
女を失って、彼は知った。永遠とは、何かがあることではなく、ないことなのだ。
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欲しいという気持ちが購入という行為でしか充足され得ないのは、こういうことです。たんに「ない」という状況に我慢ができないだけ。

合コンでの用例:
「ヴィトンもBMW も、なくしちゃったんだよね。」
(遠い目)

うそつき呼ばわりされないように注意が必要です。

ゴールデンウィークを利用して仙台の友人のところに遊びに来ています。来る途中、高速道路の大渋滞に巻き込まれ、到着するのに9時間(普段なら5時間半くらい)もかかりました。「1日を無駄にした。」という感覚に陥りながらも、そういう風に思うこと自体が、資本主義教の教えに端を発っしているのだと思ったりしました。

通り過ぎ行く景色をみつめることの大切さを再発見したい人はこちら。(図書館でもいいけど)

シカゴ育ち Book シカゴ育ち

著者:柴田 元幸,スチュアート・ダイベック
販売元:白水社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

*1 年に二回は新製品がリリースされるコナミの大人気サッカーゲーム
*2 デジタルカメラの影響で各カメラメーカはフィルムからの撤退を余儀なくされている
*3 例によって柴田元幸訳

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2006年5月 1日 (月)

鍵のかかった部屋

自殺願望があると言って憚らない知人の女性と一緒にお酒を飲んでいて、我慢ならないので、とりあえず死ぬ前に一本電話をかけてくれとお願いしたら、「ヤダ」と言下に断られてしまったことがある。10代のときのことだ。

まだ生きてるその女の子がこれから先もお酒を飲んだ席で、そんなデリカシーのない発言を口走ろうものなら、綾小路きみまろのごとく率先してサディスティックに罵ってやろうと思っている。思ってはいるが、それにしても「死ぬ前に電話してくれ」なんてお願いは傲慢だったと反省している。

それまでは、だれかが「もうダメだ」と思う寸前に「コイツの厄介になってみよう」なんて思ってもらえるような生き方がしたいと思っていたのだけれど、そんなの毎日それなりになんとかやりくりしている側の言い分なのかもしれないと気づいたのだ。

そう「もうダメだ」なんて思ってるくらいなんだから、ほとんど周囲の諸関係に救いの手を求めることは不可能であって、「助けられる」なんて考えが大間違い。もっというともつれた諸関係の一因に自分が関与しているかもしれない。となると、「とりあえず電話ちょうだい」なんて、単なるポーズ、自己満足に過ぎない。効き目があるとすれば、キャバクラ嬢を口説くときくらいだと思いあたる。

うん、そう、モテたかったの。

というわけで、とにかく人を「助ける」なんて、そんな行為は恐れ多いことだとそれ以来思うようになった。人は基本的に「助けてもらいたい」じゃなくて、「役に立ちたい」んだよね。

鍵を持っていなければ、部屋には入れません。もしたまたま鍵が開いてたとしても、勝手に入り込むことが許されているわけではなくて、ちゃんとノックして用件を伝えて、許しを得てはじめて靴を脱いで部屋に上がれる。それが礼儀というもの。

「自分はだれかを助けたいんだ」なんていう漠然とした想いは、ドアを開ける権利が相手に委ねられていることを知らないが故の傲慢です。いつでもドアが開いてて、いつでも相手が困ってると思ったら大間違いだし、ややこしい話になってしまう。「困ってる人を助けようと思って家に勝手に上がったんです!」なんて。

そういう勘違いが劣等感とか抑圧を生むんじゃないかと思う。

合コンでの用例:
「君の心の鍵。さっき鍵屋で合鍵つくってきちゃった。」

さて、女の子を思いっきり引かせるというのもひとつの手口です。

とはいっても、鍵のかかった部屋には入りこむ余地すらないのだということ、というかその前にドアを見つけることの困難を思い知るにはこの一冊。ポール・オースター著「鍵のかかった部屋」(柴田元幸訳)

Book 鍵のかかった部屋

著者:ポール・オースター
販売元:白水社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年4月18日 (火)

アメリカの自家撞着、あるいは「宮殿泥棒」

アメリカの小説家が、今日もアクチュアルな作品を書き続けているのには、ひとつに「戦争をしている国に住んでる」という当事者意識のようなものが、あるからではないかと思います。小説家が小説を書く動機に、これほど正統かつ真っ当な問題というのはないような気がします。

そういう意味でいうと、日本人の作家における「文学」の困難というのがあるはずですが、それについてはまた今度。今日は、アメリカの作家イーサン・ケイニンの短編集「宮殿泥棒」について。

いつかは自分が所属する会計事務所の共同経営者になることを望む堅実な会計士が、目の前のビッグチャンスを目前にして、「ソックスを盗む」という暴挙によって、急遽その話をなかったこととしてしまう中編「会計士」。

面白いのは、主人公が論理的な行動によってチャンスをなかったこととしているのではなく、ほぼ衝動的に「ソックスを盗む」(あこがれのメジャーリーガーのものという設定)という理不尽な行為によって、商談をなかったことせざるをえない状況を作ってしまっていることです。物語の最後は、主人公が、その衝動(盗み)について考えながら、自分が夢見ていたような共同経営者になれそうにないことを思い、これまでの人生で手にしたものと、手にしなかったものについて思いを巡らせながら話を終えます。

これは論理(理性)に衝動が先行している点において、自我の問題と言えるような気がします。主人公は「共同経営者になりたい」=「堅実に生きたい」というような理想(周囲の期待なども含む)を、それなりに体現してきたにもかかわらず、一瞬の衝動によってそれを拒否します。これは、理由や論理というものを超えたところで、「理想」に近づくことを拒否したととることができます。

アメリカは「民主主義を求めたら戦争してた」という自家撞着を抱えていますが、この作品の場合は、理由もなく、さらに後悔までしつつも「理想を求めない」という選択をしています。つまり、衝動的に戦争を回避したということです。

おなじことが表題作の「宮殿泥棒」にも言えます。

長らく教育に携わってきた歴史の高校教師が、いつかは校長の座につきたいというささやかな理想を抱きながら、権力のある政治家の息子として転校してきた愚鈍な生徒との交流の失敗(これもうまくやり通すこと可能だった)を経て、最終的に同僚との権力争いに破れるという話です。こっちも自分で失敗の種を蒔いておいて、そのことに後悔しているというシニカルな終わり方をしますが、自ら「失敗」を選択しているという点からみて、上述した「会計士」と同じ終わり方です。

以前は擁護していた同僚が急に態度を変えて校長の座についたことを指して「宮殿泥棒」というタイトルを冠していますが、権力を奪取する立場について考えた場合、宮殿を盗んだのはもちろん「アメリカ」的なものを表象しているなにかであることは間違いありません。

合コンでの用例:
「健全な生き方っていうのを追い求めてたら、この合コンに辿り着いたんだよ。」

さて、紹介した作品の他にも2編収録されていて、それらもオススメです。「アメリカの自家撞着」といううがった見方をしなくても、充分に楽しめるのは、例によって柴田元幸訳だから?ちなみに、訳者あとがきの柴田元幸は全然違うことを言っているので、そちらもどうぞ。

宮殿泥棒
Book 宮殿泥棒

著者:イーサン ケイニン

販売元:文藝春秋

Amazon.co.jpで詳細を確認する

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