勝利を標榜するエス、あるいは「アメリカの夜」
だれかとジャンケンをして、わざと後だしで負けようとするとうまく反応しないらしい。脳年齢が衰えてると反応が遅いのだとか。それで、実際にやってみたのたけど、たしかに普段は負けるためのジャンケンというのをしてないからか、負ける為のパーも、グーも、チョキもスムーズには出てこない。それで、念のために勝つ為だったらどうか?を試してみたけど、やっぱ勝つ為ならとてもスムーズに出てくるのだ。
はっきりいって「脳年齢」になんて全然興味がない(っていうか脳以外も大人になりたいと思う)のだけれど、普段から「勝ちには興味がない」とか公言してしまっている手前、なんともバツの悪い気持ちに。そういえば、生まれてこのかた、いろーんなことをジャンケンで決めてきたなぁということに思い当たる。
それにしても、少年ジャンプに反動形成されて、ずいぶん前に勝ちとか負けに興味がなくなってしまったというのに、反射的には「勝利」を求めるエスの存在にうろたえてしまった。
少なくともジャンケンをするとき、ほとんどの人は勝つ為のバイアスが働いている。
さて、にしても「勝敗には興味がない」というのは、ひきつづき現代の若者を説明するのに一番てっとり早い性向ではないかと思うのだけど、勝敗への興味のなさを代弁する作家といえばこの人以外にはいない。
阿部和重のデビュー作である「アメリカの夜」は、「春分の日との闘争」という大変風変わりなテーマをとりあつかった作品。ご存知のこととは思うけど、「春分の日」というのは、昼と夜がまったくおなじ時間だけ存在する日、つまり昼と夜の優劣がつかない日のこと。(テーマの時点でなんとも示唆的)
にしても「春分の日との闘争」なんて書くと、読んでない人には、いつものごとくある種の詭弁を弄しているかのように聴こえるかもしれないけど、この作品の場合はそうではない。主人公が「秋分の日」生まれ、だから「春分の日」を叩きのめさねばならない。(と主人公は少なくともそう信じている)という筋なのだ。
いうまでもないけど、いくら主人公が「秋分の日」生まれだろうとも、「春分の日」そのものには勝ちようもないし負けようもない。勝ちでもなく負けでもないといえば、そう、それはジャンケンにおける「あいこ」。つまり勝敗が保留になる瞬間。もう一度ジャンケンを迫られるという、あの安堵と切迫が入り交じった緊張の走る瞬間を切り取った「あいこの小説」ともいえる。
あたらしい商品がでるたびに、あたらしい商品を買わないといけないような気分になるボクたちは、目の前の商品に目がくらんで、本当に欲しいものが見えないという決定不能の時代に生きている。それは、ボクらの生きる時代が「あいこの時代」といえるくらいに安堵(保留)と切迫(焦燥)に覆われているということを意味している。当時25才(か26)の阿部和重が書いたデビュー作の「アメリカの夜」は、そのような保留の瞬間を描写することで、おなじように現代を生きる若者たちの安堵と切迫を忠実に描きだすことに成功している。
合コンでの用例:
「今後一切ボクはキミに完敗さ。」
ちなみに、書き出しのブルース・リーのくだりは、どこか「日本近代文学の起源」を書いた柄谷行人を彷彿とさせる。「近代文学の起源」を再定義しようとした柄谷行人のアプローチを、ブルース・リーのジークンドーを下敷きにアレゴリーとしてしまうようなスタイリッシュなユーモアが、阿部和重らしい書き出しだが、その後の順風満帆な作家としてのキャリアは、このデビュー作のこの技巧的な書き出しによって保証された。と言ってしまったら大げさか・・・。
しかしながら、この類まれな文学的センスが、阿部和重を文学者として、国内の他の技巧的な文学者(保坂和志だとか高橋源一郎だとか)から一線画す所以となっていることは間違いないと思う。
いずれにせよ、あいこの時代の必読書はこちら。
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アメリカの夜 著者:阿部 和重 |
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