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2006年6月10日 (土)

「不在の物語」、あるいは「未亡人の一年」

構造主義の人ロラン・バルトの写真論「明るい部屋」は、哲学書であるだけでなく、亡くなった母へ捧げられたオマージュでもある。この本のなかのロラン・バルトは、哲学者というよりも、「実際の母」と、写真が写し取った「若き日の母」という二重の不在に胸を打たれてた、単なる寂しがりやの息子という態だ。

あのクールな構造主義の人がこれほどまでに自己をさらけだし、寂しがりやの息子だということを露呈してまで写真の記号論について書き記したのには、亡き母のために一冊の本を捧げるという意図ももちろんあっただろうが、それ以上に、個人的な体験に基づいた特定の一枚の写真(若き日の母の写真)を物語る以外には、写真の持つ記号論的意味を浮き彫りにすることも、そもそも「写真」一般について語ることも、不可能だということを知っていたためだろう。

そういう意味でいうとこれは、哲学書でありながら、かつ「不在の物語」ということになる。

さて、おなじように「不在」の物語性について書かれた、ジョン・アーヴィングの「未亡人の一年」について書きたい。

この小説も、「不在の物語」と言える。あるいは、より正確にいうと『「不在の物語」の物語』ということになるだろう。「物語」の物語とややこしく言ったのは、登場人物たちの職業がことごとく作家のためであるが、「不在」のもつ物語性が、物語全体の主軸に沿えられている。(数多くの作家が登場するアーヴィングの小説だが、この小説にいたっては、4人もの作家が登場する。)

主人公のルースは、死んでしまった兄たちの夥しい写真に囲まれた家で育つ。が、ある日、二人の息子を失い途方に暮れつづけた母マリアンは、その写真とともに家を出て行ってしまう。残されたのは、作家である父と幼いルースと、母のつかの間の愛人エディ。

物語はそのようにしてはじまる。

主人公のルースは、消えてしまった「兄たちの写真」にまつわる物語をでっちあげることによってなるべくして作家となる。作品内に登場するルースの作品は、後述する、エディやマリアンの小説のように決して「不在」に捕われた作品ではないが、作家の継起そのものが「写真」=「不在」であることからいって、「不在」の物語と言えるだろうし、実際ルースは、作品の出版や人生の継起のごとに「母」の出現を期待している。

また、ルース以上に、「不在」に憑かれているのが、ルースの母マリアンとマリアンのつかの間の愛人エディである。

エディは、「若かったマリアン」(知り合ったときはすでに39歳)と「実際のマリアン」という二重の不在に苛まされながら、年上の女性しか愛せない男を主人公にした小説ばかり(というか不在に捕われているのでそれ以外は書けない)を書いて、作家となるし、同様に、幼い娘をおいて失踪してしまった母マリアンもまた、失った「息子たち」の思い出と、不在の刻印を残酷に刻み込んだ「写真」に囲まれながら、まさにロラン・バルト的な二重の不在に苛まされたまま、行方不明者課につとめる女刑事を主人公(文字通り「不在」苛まされている職業である)にした、小説を書いて作家となる。

すでに登場した時点で作家だった父テッドについては、「不在」そのものが作家の継起にもなっていないし、「不在」に苛まされているというわけではないが、描かれた作品はすべて、本来「いるべきでないもの」が「いるかのような」、まさに「不在」にまつわる作品である。

単なる「不在」をテーマに物語を紡ぐ(そういうテーマに基づいた素晴らしい作品はたくさんあるが)のではなく、『「不在」をテーマに物語を紡ぐ作家たちの物語』と、物語の構造を深化させるジョン・アーヴィングの技術には、脱帽するばかりである。

合コンでの用例:

「この世の中は、「不在」が多くの物語を紡いでいるんだよ。」

ジョン・アーヴィングの小説の多くで、登場人物たちが、あっさりと死んでしまったり、そしてまた多くの登場人物たちが職業的な作家となるのは、不在が物語りの継起となるということが、小説の世界に限らず、我々の生活においても、歴然とした事実として存在することを伝えるためなのではなかったか。

とはいえ、時代錯誤的な全体小説の様相を呈したジョン・アーヴィングの小説を、たったひとつのテーマに基づいて読み解くなんてもったいないので、読まれる方は、それぞれの楽しみ方をするべきである。必読の古典的現代小説はこちら。



未亡人の一年〈上〉

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未亡人の一年〈上〉

著者:ジョン アーヴィング

販売元:新潮社

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参考までに、ロラン・バルトの感動的な不在にまつわる哲学書も。



明るい部屋?写真についての覚書

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明るい部屋?写真についての覚書

著者:ロラン バルト

販売元:みすず書房

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2006年6月 4日 (日)

勝利を標榜するエス、あるいは「アメリカの夜」

だれかとジャンケンをして、わざと後だしで負けようとするとうまく反応しないらしい。脳年齢が衰えてると反応が遅いのだとか。それで、実際にやってみたのたけど、たしかに普段は負けるためのジャンケンというのをしてないからか、負ける為のパーも、グーも、チョキもスムーズには出てこない。それで、念のために勝つ為だったらどうか?を試してみたけど、やっぱ勝つ為ならとてもスムーズに出てくるのだ。

はっきりいって「脳年齢」になんて全然興味がない(っていうか脳以外も大人になりたいと思う)のだけれど、普段から「勝ちには興味がない」とか公言してしまっている手前、なんともバツの悪い気持ちに。そういえば、生まれてこのかた、いろーんなことをジャンケンで決めてきたなぁということに思い当たる。

それにしても、少年ジャンプに反動形成されて、ずいぶん前に勝ちとか負けに興味がなくなってしまったというのに、反射的には「勝利」を求めるエスの存在にうろたえてしまった。

少なくともジャンケンをするとき、ほとんどの人は勝つ為のバイアスが働いている。

さて、にしても「勝敗には興味がない」というのは、ひきつづき現代の若者を説明するのに一番てっとり早い性向ではないかと思うのだけど、勝敗への興味のなさを代弁する作家といえばこの人以外にはいない。

阿部和重のデビュー作である「アメリカの夜」は、「春分の日との闘争」という大変風変わりなテーマをとりあつかった作品。ご存知のこととは思うけど、「春分の日」というのは、昼と夜がまったくおなじ時間だけ存在する日、つまり昼と夜の優劣がつかない日のこと。(テーマの時点でなんとも示唆的)

にしても「春分の日との闘争」なんて書くと、読んでない人には、いつものごとくある種の詭弁を弄しているかのように聴こえるかもしれないけど、この作品の場合はそうではない。主人公が「秋分の日」生まれ、だから「春分の日」を叩きのめさねばならない。(と主人公は少なくともそう信じている)という筋なのだ。

いうまでもないけど、いくら主人公が「秋分の日」生まれだろうとも、「春分の日」そのものには勝ちようもないし負けようもない。勝ちでもなく負けでもないといえば、そう、それはジャンケンにおける「あいこ」。つまり勝敗が保留になる瞬間。もう一度ジャンケンを迫られるという、あの安堵と切迫が入り交じった緊張の走る瞬間を切り取った「あいこの小説」ともいえる。

あたらしい商品がでるたびに、あたらしい商品を買わないといけないような気分になるボクたちは、目の前の商品に目がくらんで、本当に欲しいものが見えないという決定不能の時代に生きている。それは、ボクらの生きる時代が「あいこの時代」といえるくらいに安堵(保留)と切迫(焦燥)に覆われているということを意味している。当時25才(か26)の阿部和重が書いたデビュー作の「アメリカの夜」は、そのような保留の瞬間を描写することで、おなじように現代を生きる若者たちの安堵と切迫を忠実に描きだすことに成功している。

合コンでの用例:
「今後一切ボクはキミに完敗さ。」

ちなみに、書き出しのブルース・リーのくだりは、どこか「日本近代文学の起源」を書いた柄谷行人を彷彿とさせる。「近代文学の起源」を再定義しようとした柄谷行人のアプローチを、ブルース・リーのジークンドーを下敷きにアレゴリーとしてしまうようなスタイリッシュなユーモアが、阿部和重らしい書き出しだが、その後の順風満帆な作家としてのキャリアは、このデビュー作のこの技巧的な書き出しによって保証された。と言ってしまったら大げさか・・・。

しかしながら、この類まれな文学的センスが、阿部和重を文学者として、国内の他の技巧的な文学者(保坂和志だとか高橋源一郎だとか)から一線画す所以となっていることは間違いないと思う。

いずれにせよ、あいこの時代の必読書はこちら。

アメリカの夜 Book アメリカの夜

著者:阿部 和重
販売元:講談社
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