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2006年5月19日 (金)

活字中毒者の待ち合わせ間際の杞憂、あるいは「カメレオンのための音楽」

待ち合わせの時間に間に合わない。

急ぎ足で駅に向かう道すがら、はたと、本をもってないことに気付き(活字中毒者にとってはあの恐怖の瞬間)、近くにある小さな本屋に入って、持ち歩くのにも電車で読むのにもちょうどいい、文庫版の短編小説かなにかを探そうと陳列された書棚に向き合うとき、とりあえずまっさきに向かうのは新潮文庫の海外作品のところなのだが、そういう行為を「あー、わかる。」と思ってくれる人は自分以外にも結構いると思うのだけれど、どうだろう。

入った本屋が小さければ小さいほど、新潮文庫の海外作品のコーナーはわくわくします。あぁ、こんなちっちゃな本屋にラヒリが!とか。あぁ、こんなとこにアーヴィングが!なんて、驚きに見舞われるから。

さて、とはいっても、話したかったのは、資本主義経済のグローバリズムが場末の本屋にまで及ぼしている影響というようなことではなくて、トルーマン・カポーティのこと。

上述したようなふらっと立ち寄った小さな書店で、さらりと読めそうな本を探そうというとき、新潮文庫の書棚の「カ行」に必ずといっていいほど鎮座ましましているのがカポーティの「ティファニーで朝食を」。もう一歩文学作品に踏み込んだ書店の場合、となりに「冷血」なんかが並んでたりする。

で、大体かなりの確率で「カ行」はなかったことにしちゃっていた。(おなじ「カ行」に同様に必ずといっていいほど陳列されてる、カフカの「変身」については、すでに過ぎし日の夏休みの読書感想文に、「本が薄い」というだけの理由でチョイスされている。)

「ティファニーで朝食を」という背表紙を見て思い浮かべるのは、なんといってもオードリー・ヘップバーンのこそばゆい微笑だし、その後ろに感じるのは、とげのないアメリカの古い映画の原作というイメージ。それで、たまたまとなりに「冷血」なんかが置いてあったりしても、「ノンフィクション」の文字と、その本の厚さにため息まじりでかぶりを振ってしまうのだ。

なのでたぶん、新潮文庫のマーケティング(ヨンダパンダがいくらカワイくなっていったとしても)の仕方では、一生カポーティを手に取ることはなかったんじゃないかと思う。なぜなら、「ティファニーで朝食を」と「冷血」という隣あう本同士にある溝、その断絶が、深すぎるから。節操のなさそうな作品のテーマと、有名すぎる「カポーティ」という名前に、ぜんぜん興味を惹かれなかったのだ。

では、なぜカポーティを手にとったかというと、フィッツジェラルドの短編をいくつかまとめた短編集「マイロストシティ」の序文で、村上春樹が、トルーマン・カポーティを魅力的に説明していたから。(恐るべき影響力)

それで、もともと「カ行」なんてなかったのだと思うようにして送っていた積年の生活に終止符を打ち、一念発起して「カ行」の存在を受け入れることにしてみると、たちまち「ティファニー」と「冷血」に対して感じていた思惑が、不当だったということに気付いたわけです。

「ティファニーで朝食を」という作品が、オードリー・ヘップバーンの映画の存在によって、文学的価値を失うような作品ではないことや、いまとなっては目新しくもないノンフィクションノベルという手法そのものが、カポーティによって確立されたということを知ることによって。

ただし、カポーティの本質はそれでもやはり「ティファニーで朝食を」と「冷血」の合間の深い断絶なのではないかと思う。

その、断絶、谷の深さ、その「よくわからなさ」が、トルーマン・カポーティという作家の希有の才能のなせる所産だと思うのだ。

カポーティが素晴らしい小説家であるのは、たんなる「作家」としてではなく「小説家」として、物語そのものの価値だけでなくて、テキストという表現手段を駆使し、あらゆる技巧的表現を模索した姿勢にあるのではないかと。

その失敗や成功の所産である「よくわからなさ」が、カポーティの最大の魅力なのではないかと。

どちらにしても、待ち合わせ前に急ぎ足で小さな本屋に入るようなことがあれば、すかさず「ティファニー」を手に取ったとしても、あなたが後悔されることはないことだけは保証しておきます。

合コンでの用例:
「オレが今日遅刻したのは、ヨンダパンダに捕まってしまってたからさ」

さりげなく本も読んでるんだぜということをアピール。

ゆっくりカポーティを読み始めたいという方にはこちらをオススメ。深い懊悩の後も、書くべきことをみつけられなかった「冷血」出版後のカポーティが晩年に出版した唯一の作品、トルーマン・カポーティ著「カメレオンのための音楽」(野坂昭如訳)。

まるで遺作になることを予感しているかのようにこれまでの自分が出版した作品に対する述懐から始まる序文は、カポーティ自身の作品の魅力を自分自身で客観的に称えた名文。編みこまれたそれぞれの短編からは、カポーティがたんなる作家であることを自分に許さず、常にあたらしい表現方法を模索し続けたことを感じることができる名著です。

カポーティが「カメレオンのための音楽」というとき、「カメレオン」という表現が、表現者としてさまざまな手法をもちいた自分自身に対するメタファーなのか、それともカメレオンのように一瞬一瞬で様相を変えてしまう読者を指したメタファーなのか、読みながら考えてみるのも一興です。

カメレオンのための音楽 Book カメレオンのための音楽

著者:トルーマン カポーティ
販売元:早川書房
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