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2006年5月15日 (月)

ちょいワル文学再び、または、ぼくらが夜な夜な眠れぬ理由

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夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。彼らはなにをするのか。
夜を現存させているのだ。(モーリス・ブランショ)
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眠れない夜のしじまに、暗闇を見つめるとき、ときどき思うことがある。もしかして魂が、活動を始めたのではないかと。もしかしたら、眠れないのではなくて、ついさっきまで眠っていたのではないかと。

ブランショの美しい言葉の引用からはじまるアントニオ・タブッキの「インド夜想曲」は、本人が前書きで記しているように「不眠の本」です。また、単に「不眠の本」であるだけでなく、「旅の本」でもあります。

さて、タブッキは親切にも書き出しのつづく文章ですかさず謎めいたその小説の定義についてヒントを与えてくれています。

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不眠はこの本を書いた人間に属し、旅行は旅をした人間に属している。
---アントニオ・タブッキ「インド夜想曲」まえがきより

多くのフリーターが末永く「フリーター」でいることを望んでいるわけではないように、程度の差こそあれ、多くの大人達が白昼の舞台で繰り広げられる社会的活動(仕事)に従事することを心から望み、「これこそが本当の自分だ」と考えているわけではないはずです。そんな風に思えるような生活を送っているのはほんの一握りの人だけだし、もしかしたらそれだって単なる思い込みってことは充分に考えられます。

たとえば、酔っぱらい相手に注文を承りながら、嬉しくもないのに「はい、よろこんでー」と言うとき、たとえばお世話になんかなっていないクライアントへのメールに「お世話になっています」という一文を添えるとき、あなたの魂は眠ってしまっていて、身体だけが旅していると考えることはできないだろうか。

あなたの身体は、昼の間「魂」を眠らせたまま旅をしてきて、夜になって「身体」が睡眠を欲し始めると、「魂」がのそのそとあくびなんかしながら、起き上がってくる。そして、「身体」が掴みかけてた眠りの糸口を、遠い彼方の洞窟のようなところに追いやってしまって、暗闇の中に明晰さとともに置き去りにしてしまうのだとしたら。

物語は、失踪した友人を探しながら、幻想に満ちたインドを逍遥する主人公のお話です。主人公は、失踪した友人が残したわずかな手がかりをもとに、様々な人をたずね、また偶然の出会いを重ねながら、ゆっくりと目的地へと近づいて(導かれて)いくというもの。探しているといっても、探している理由も明らかではなくて、深刻さは希薄。どこかで話をはぐらかされたような謎めいたストーリの進め方は、夢遊病者の旅行記(まさに本のテーマのごとく)を読んでいるかのよう。ただし、その謎めいたストーリに秘められた警句的な意味、とくに物語の最後にかけてはとてもストレート。

終止インドの生温さを感じさせるような文章からは、インドの混沌と喧噪がひしひしと伝わってくる。また、通り過ぎる景色や人々は、まるで読みながらうとうとしたときに見た夢なのではないだろうか?というような錯覚に陥ってしまうほどに輪郭の曖昧な描写が続き、本当に幻想のインド(もちろん夜)に迷い込んでしまったよう気になってきます。(須賀敦子さんの信じられないくらいの名訳もあって)

我々は、主人公の視界を襲うインドの白昼とインドの夜想を通り抜けて、「眠れない」という宿命が正常なことだと思い当たります。いや、眠れない夜の自分と、眠ったような昼の自分、そのどちらもが自分なのだということに気付かされるというべきか。

不眠を不運と嘆くことはないかもしれない。ほら、眠れない夜こそ、魂の活動時間なのかも。

合コンでの用例:
「夜更かしが罪だとしたら、ボクらは共犯関係だね。」

甘い夜になること請け合いです。(たぶん)

昼間は魂を眠らせておいて、夜更かしにそなえたいという人。夜更かしのおともはこちら。「夜を現存させるという罪」を犯す、ちょいワル文学



Book
インド夜想曲

著者:アントニオ タブッキ

販売元:白水社

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