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2006年5月31日 (水)

「健康で幸福」というまやかし、あるいは「体の贈り物」

ボクたちは生きている。

これが真実として、じゃぁ、ボクたちは生きているから幸福だろうか?

そんなことはないと思う。生きていることが、幸福の条件になってしまったら、死んでいった人たちも、これから死にいく人たちも、みんな不幸だということになってしまうではないか。それに、毎朝、起きて、あの呪われたような職場に出かけて行くことを、「あぁ、超ハッピー!!」なんて言えないではないか。(ボクはへらへら笑っている技術に長けているけど。)

「ボクたちは生きている。」

とりあえず、ここから始めてみるとして、次はどんなことが巻き起こるだろうか。

ボクたちは生きていて、そして、空気を吸う。
(空気という贈り物を授かる。)
ボクたちは生きていて、冷蔵庫に入った冷たい水を飲む。
(あるいは、水という恩恵に預かる。)
ボクたちは生きていて、かわいい女の子を視線の外側で追う。見てないふりをして。
(「かわいい」というのは、まぎれもなく神の恩寵である。)
ボクたちは生きていて、ヒドイ目にあう。たとえば、買ったばかりの傘をコンビニで盗まれたり。
(まさに、レ・ミゼラブル。)
ボクたちは生きていて、買ったばかりのスニーカーを履いた日に土砂降りに見舞われる。
(もちろん、ため息。)

要約するとこういうことになると思う。

「ボクたちは生きている。そしてときどき、思いも寄らない贈り物を受け取って、ときに泣いたり、ときに笑ったりする。」

そう、できる限り簡潔に言えば、そういうことになると思う。

「生きている」ということが、必ずしも幸福の条件だとは言えない。

レベッカ・ブラウンの「体の贈り物」について。

「体の贈り物」は、末期のエイズ患者の看護を仕事とするホームケアワーカーを主人公にした連作短編小説です。なんて説明すると、「あぁ、そういうの全然興味ない。」とか、「そういう重いの、いまはあんまり読みたくないんだよね。」という、ため息まじりの沈黙が聴こえてきそうだけれど、とにかくまずそう説明しないわけにはいきません。だれがなんといおうと、小説全体を覆う設定は否定しようもなくそういうことになっています。

それでも、少し詭弁を使っていいのなら、こうも言えます。これは、「贈り物」に関する小説です。我々の生活には、望むと望まざるとに関わらず圧倒的に「贈り物」に溢れている。いうまでもなく「贈り物」はいつだって、心躍るものです。

だからたとえば、ホームケアワーカーである主人公が、末期のエイズ患者に対して、ナイチンゲールなみの天使的な優しさを発揮して、無償の献身の果てにすべての患者達が清々しい死を迎えるみたいな、そんなヤボったくて重苦しい小説を想像していたらそれは幸いにも勘違い。

本書における「贈り物」のあり方は、実に多様です。

主人公から患者へ贈られる配慮という贈り物だったり。
患者から主人公へ贈られるシナモンロールという贈り物だったり。
お風呂のあとの患者の肌に触れる心地よい空気という贈り物だったり。(空気ですら贈り物なのだ。)
死以外には出て行くことができないホスピスから「自力の失踪」という贈り物だったり。(他の患者達のあいだで伝説になる。)
苦しむ幼なじみの友人に贈った、患者同士の「死」という贈り物だったり。(そこではもう「死」そのものですら、彼らを救済する贈り物なのだ。)

小説の後半に収録された「姿の贈り物」(各章は「○○の贈り物」というタイトル)のワンシーン。

毎日の生活に少しずつ言葉にはできない疲労を感じ始める主人公は、病床の患者の疾患をみて目をそらしながら、病床に臥す患者にむかって、残酷な思いを巡らせるシーンがあります。終止穏やかな調子を整えた小説の中にあって、そのシーンは、その残酷さゆえに、胸を打ちます。

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「でもあなたはそこで病気になったわけよね。そこから死にに帰ってくることになったわけよね。」と考えていた。そんな風に考える自分がすごく嫌だった。でも私はこう自分に言い聞かせもした — 私自身は正しいことを感じたり考えたりできなくても、とにかくこの人は食べ物を与えられているし、シーツも替えてもらっているし、キッチンを掃除してもらっているし、体に軟膏を塗ってもらっているじゃないか、と。
---「体の贈り物」より

ボクたちが、笑ったり、悲しんだり、楽しんだり、つまづいたり、怒ったり、苦虫をかみつぶしたり、貧乏揺すりしたり、舌打ちしたり、吐き気を催したり、ちょっと小躍りしたり、あくびをしたり、そのまま居眠りしたりできるのは、だれかから、なにかから贈り物を受けとっているからなのです。

合コンでの用例:
「ボクからの贈り物は、この笑顔と、この笑えない冗談だけだよ。」

本当に笑ってもらえないのだから、嘘つきでないことだけは伝わるはず。

さて、「健康で幸福だなぁ」なんていうのは、愛国心の育成と徴兵制を正常に機能させるために帝国主義が開発したまやかしだというようなことを明らかにしたのはたぶんミシェル・フーコーだったと思うのですが、とりあえず意中の女の子に素敵な贈り物を贈りたいという方は、こちら。

体の贈り物
Book 体の贈り物

著者:レベッカ ブラウン

販売元:新潮社

Amazon.co.jpで詳細を確認する

柴田元幸訳

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2006年5月27日 (土)

ミクシィの外側の国で、あるいは「最後の物たちの国で」

これはミクシィの外側のお話です。と彼女は書いていた。

アナタはしらないかもしれませんが、この国では政府のやり方は、いつも横暴なのです。最近では、駐車違反の取り締まり法が改正されるという噂で、街中がもちきりです。駐車違反の取り締まりを民間に委託するのだというのです。彼らは、駐車違反を取り締まるためだけに訓練された駐車違反取り締まりのエリートです。ずるがしこいけど、管理もずさんだったこれまでの担当者たちとはやり方が根本的に違います。有無をいわさずフロントガラスにステッカーを貼り、車のナンバーをデジタルカメラに納めるそうです。しかも、これからは運転者ではなく車の所持者に罰金を請求することにして、徴収率100%を目指すというのです。(アナタはびっくりするかもしれませんが、これまでは「逃げ得」といって3割の対象者が罰金から逃れていたそうです。)

ちなみにこの改正によって、予測では当局の駐車違反による収入はいままでの2.5倍程度増加するそうです。増えたお金がどこにいくかは謎ですが、天下り先企業との癒着がこれまで以上に深まることは間違いないというのが、この国の市民の大方の憶測です。

それにアナタはしらないかもしれませんが、この国でパチンコが「ギャンブル」の規定からはずれているのは、警察組織のOBがパチンコ業界に天下りしているからなのだそうです。あれはあくまでもパチンコの出玉で交換した文鎮を「古物商」に売って現金に交換しているだけなのだそうです。ワタシは、いっとき誤って普通の文鎮を持っていってしまい、すごく恥ずかしい思いをしたのです。この国では、ペーパーウェイトとしての「文鎮」と、特定の古物商が高く買い取ってくれる「文鎮」の二種類が存在するのです。

ほかにもあります。アナタはしらないかもしれませんが、おなじく法改正でこれからは自転車でも無灯火や飲酒運転は罰金をとられるのだそうです。しかし「もっと世の中に横行する悪行を取り締まってくださいよ」などと生意気な口をきいてはなりません。当局の連中は生意気な口はすかさず逮捕の構えです。もし「自転車、飲酒運転で逮捕」なんていう事態に巻き込まれたら、まぬけすぎて笑えないので、今後は一切の酒気帯び自転車運転を控えねばなりません。

本当は、ほかにもまだまだあるのですが、これ以上この国の理不尽について書き続けてもあなたの気分を害すだけだろうし、実際ワタシ自身書いていて気分が悪くなってきたのです。

でも、最後にひとつだけ言わせてください。このミクシィの外側の世界では、いまでもこのような理不尽なことが(数えきれないほど数多く)巻き起こっているのです。あなたはやさしい性格なので、ワタシがこのミクシィの外側の世界で四苦八苦していることをこの手紙で知って、もしかしたらこの国にやってきてしまうかもしません。でも、お願いです。どうかミクシィの内側から出てこないでください。外の世界にはロクがなことがありません。

ワタシが、無事にミクシィにログインできたらまたメールします。

合コンでの用例:
「仕事を退職したら、ミクシィで平穏無事な老後を過ごそうかと思っているんだよね。」

そのうち仕事とか食事の出前なんかもぜーんぶミクシィできるようになることを予見して。

ポール・オースター著「最後の物たちの国で」は、帰ってこなくなってしまった兄を探しに「最後の物たちの国」に入った妹のアンナの書いた手紙という形式をとった小説です。反ユートピア小説と一言で片付けてしまえる程に、「最後の物たちの国」は絶望的な国です。具体的な政府は表面的にしか姿を表しませんが、理不尽で怠惰であり(感情のない官僚組織)、人々は他人を傷つけてでも自分が生き延びることしか考えていません。主人公は、この国でなんとかぎりぎり生き延びて、その手紙を書くことに成功しました。といっても、国から逃れでることも、書いた手紙が宛先に届くことも保証されたわけではない点からいうと、それを「成功」といってしまっっていいかは、甚だ疑問が残るところですが。

この作品の前の作品「鍵のかかった部屋」が、「部屋の中に入れない」物語だとすれば、この作品は「部屋の外に出れない」物語として読み取ることができます。(実際「鍵のかかった部屋」でファンショーを探したまま行方をくらませてしまった探偵「クィン」のパスポートを主人公が拾うシーンがあるため、ファンショーの住む「鍵のかかった部屋」の内側の物語として読むことも可能かもしれない。)

我々が、自分たちを含む「国家」や「組織」や「社会」を批判するとき、その批判に含まれるのは、その外側に出ることのできないジレンマと、枠組みの中でなんとか生き延びようとする希望に他ならないわけですが、絶望に光明を見いだすことこそが人間らしさなのだとすれば、こことは違う「最後の物たちの国」に住む住人たちは、光を見つける能力に長けた人間たちといえるかもしれません。魂の漆黒の闇に光を見いだしたい人はこちら。(まごうことなき柴田元幸訳。)



最後の物たちの国で

Book
最後の物たちの国で

著者:ポール・オースター

販売元:白水社

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2006年5月25日 (木)

村上春樹の時代的必然、あるいは「スプートニクの恋人」

村上春樹の長編小説の共通点といえば、必ずといっていいほど、大切な人が突如としてどこかに消えてしまうことである。ほとんど前触れもなく、理不尽に、ときには非現実的に、こつ然と消え去ってしまう。

主人公は、失踪してしまった大切な人を探すべく東奔西走するわけだが、大体の作品においてそれは徒労に終わってしまう。もともと消え去ってしまうには、消え去ってしまうだけの必然的な理由があることは、主人公もハナから気付いているか、もしくは少なくとも予感しているのだ。

さて、村上春樹の小説のもうひとつの共通点は、主人公が「既製のコミュニティに所属していない」という点である。主人公は、職業的な意味や、社会的な位置づけとして「教師」であるとか「学生」という身分に所属していることがあっても、本質的な意味においてそのコミュニティの成員たらしめていないし、またどのような既製のコミュニティにも参加を希望していない。

言い換えれば、村上春樹は、コミュニティに所属することの違和感そのものを、小説自体の推進力にしている。デビュー作である「風の歌を聴け」から、最新長編の「アフターダーク」まで、これは本当に終止一貫している。

さて、これら二つの大きな共通点からみて、村上春樹の小説は「喪失」と「孤独」が大きな「テーマ」といえるわけだが、だからといって、村上春樹の小説を読むたびに「人間というのはなにかしらを喪失しながら孤独に耐えて行かなければならないのだなぁ」というようなステレオタイプに帰結させたりすると、短絡的すぎて実りがない。

では、どのようにして「孤独」と「喪失」という主題をテーマを読み解くべきか?それは、主人公の「孤独」と「喪失」に対する態度の変遷としてである。

「ねじまき鳥クロニクル」の出版後、4年のブランクを空けて出版した「スプートニクの恋人」は、その活動再開を高らかに読者に告げるかのように、村上春樹的比喩が横溢し疾走する書き出しからはじまる。村上春樹的にたとえるとしたら「世界中のツキノワグマの胸の三日月が満月になってしまう」かのような書き出しである。

ファンなら微笑を、毛嫌いする読者なら冷笑を浮かべているであろうことが、簡単に思い浮かばれてしまうくらいにその村上春樹らしさは、ブランクの後も変わることなく、泰然自若として存在しているのだが、まさに村上春樹らしい復活作であるその小説は、意外なことにそれまでの村上春樹の小説とはまったく異なった終わり方で幕を閉じる。

私はこの本を、村上春樹の本をはじめて読む人にオススメしたいので、その結末について、ここに書くことは控えるが、村上春樹の仕事をある特定の作品ごとで時代ごとに区切るのであれば、間違いなく「ねじまき鳥クロニクル」と「スプートニクの恋人」の間がひとつのターニングポイントなると思う。

その間の村上春樹の仕事は、2年の歳月をかけて翻訳した、アメリカで実際におきた殺人事件の、その犯人の実弟が記した手記、マイケル・ギルモア「心臓を貫かれて」であり、自身初のノンフィクションとして、テレビや既製のマスコミが報道しないサリン事件を被害者の側の視点で描き出した「アンダーグラウンド」である。

それはどちらも「不可避的でかつ絶望的な暴力」を取り扱った作品である。

村上春樹が小説家としてキャリアを再会するにあたり、この二つの作品が、小説家「村上春樹」に与えた影響はかなり大きいと推測する。

それは、その後に書かれたすべての長編小説「スプートニクの恋人」「海辺のカフカ」「アフターダーク」の結末が、それ以前の小説の結末とは違ってきているという点からみても、感じられる。

それまでが「孤独であることが喪失を免れるわけではない」という「絶望」を描いた作品(私は、それを時代的必然として擁護する)だったとすれば、以降の作品は「孤独」と「喪失」を描きながらも「絶望」以外のなにかを見出そうとする作品なのである。

もちろん、「絶望」以外のなにかとは、かすかで一縷の「希望」以外のなにものでもない。

合コンでの用例:
「オレさぁ、こないだ女の子にデートをすっぽかされた上に、あまりのショックで財布おとしちゃってさ・・・。」

孤独と喪失が、人生にはつきものであるということをユーモアを交えて示唆しましょう。

さて、「村上春樹の作品を読む」ということが、時代的必然であることは、私がいうまでもないことですが、「好き」とか「嫌い」とかいうまえにとりあえず全作品を読んでいることが大人の条件です。

もし、万が一、まだ読まれていないという方がいらっしゃったらこちらから。あなたの孤独があなただけのものではないことや、あなたに訪れる喪失があなただけのものではないことを、噛み締める一冊。

スプートニクの恋人 Book スプートニクの恋人

著者:村上 春樹
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年5月19日 (金)

活字中毒者の待ち合わせ間際の杞憂、あるいは「カメレオンのための音楽」

待ち合わせの時間に間に合わない。

急ぎ足で駅に向かう道すがら、はたと、本をもってないことに気付き(活字中毒者にとってはあの恐怖の瞬間)、近くにある小さな本屋に入って、持ち歩くのにも電車で読むのにもちょうどいい、文庫版の短編小説かなにかを探そうと陳列された書棚に向き合うとき、とりあえずまっさきに向かうのは新潮文庫の海外作品のところなのだが、そういう行為を「あー、わかる。」と思ってくれる人は自分以外にも結構いると思うのだけれど、どうだろう。

入った本屋が小さければ小さいほど、新潮文庫の海外作品のコーナーはわくわくします。あぁ、こんなちっちゃな本屋にラヒリが!とか。あぁ、こんなとこにアーヴィングが!なんて、驚きに見舞われるから。

さて、とはいっても、話したかったのは、資本主義経済のグローバリズムが場末の本屋にまで及ぼしている影響というようなことではなくて、トルーマン・カポーティのこと。

上述したようなふらっと立ち寄った小さな書店で、さらりと読めそうな本を探そうというとき、新潮文庫の書棚の「カ行」に必ずといっていいほど鎮座ましましているのがカポーティの「ティファニーで朝食を」。もう一歩文学作品に踏み込んだ書店の場合、となりに「冷血」なんかが並んでたりする。

で、大体かなりの確率で「カ行」はなかったことにしちゃっていた。(おなじ「カ行」に同様に必ずといっていいほど陳列されてる、カフカの「変身」については、すでに過ぎし日の夏休みの読書感想文に、「本が薄い」というだけの理由でチョイスされている。)

「ティファニーで朝食を」という背表紙を見て思い浮かべるのは、なんといってもオードリー・ヘップバーンのこそばゆい微笑だし、その後ろに感じるのは、とげのないアメリカの古い映画の原作というイメージ。それで、たまたまとなりに「冷血」なんかが置いてあったりしても、「ノンフィクション」の文字と、その本の厚さにため息まじりでかぶりを振ってしまうのだ。

なのでたぶん、新潮文庫のマーケティング(ヨンダパンダがいくらカワイくなっていったとしても)の仕方では、一生カポーティを手に取ることはなかったんじゃないかと思う。なぜなら、「ティファニーで朝食を」と「冷血」という隣あう本同士にある溝、その断絶が、深すぎるから。節操のなさそうな作品のテーマと、有名すぎる「カポーティ」という名前に、ぜんぜん興味を惹かれなかったのだ。

では、なぜカポーティを手にとったかというと、フィッツジェラルドの短編をいくつかまとめた短編集「マイロストシティ」の序文で、村上春樹が、トルーマン・カポーティを魅力的に説明していたから。(恐るべき影響力)

それで、もともと「カ行」なんてなかったのだと思うようにして送っていた積年の生活に終止符を打ち、一念発起して「カ行」の存在を受け入れることにしてみると、たちまち「ティファニー」と「冷血」に対して感じていた思惑が、不当だったということに気付いたわけです。

「ティファニーで朝食を」という作品が、オードリー・ヘップバーンの映画の存在によって、文学的価値を失うような作品ではないことや、いまとなっては目新しくもないノンフィクションノベルという手法そのものが、カポーティによって確立されたということを知ることによって。

ただし、カポーティの本質はそれでもやはり「ティファニーで朝食を」と「冷血」の合間の深い断絶なのではないかと思う。

その、断絶、谷の深さ、その「よくわからなさ」が、トルーマン・カポーティという作家の希有の才能のなせる所産だと思うのだ。

カポーティが素晴らしい小説家であるのは、たんなる「作家」としてではなく「小説家」として、物語そのものの価値だけでなくて、テキストという表現手段を駆使し、あらゆる技巧的表現を模索した姿勢にあるのではないかと。

その失敗や成功の所産である「よくわからなさ」が、カポーティの最大の魅力なのではないかと。

どちらにしても、待ち合わせ前に急ぎ足で小さな本屋に入るようなことがあれば、すかさず「ティファニー」を手に取ったとしても、あなたが後悔されることはないことだけは保証しておきます。

合コンでの用例:
「オレが今日遅刻したのは、ヨンダパンダに捕まってしまってたからさ」

さりげなく本も読んでるんだぜということをアピール。

ゆっくりカポーティを読み始めたいという方にはこちらをオススメ。深い懊悩の後も、書くべきことをみつけられなかった「冷血」出版後のカポーティが晩年に出版した唯一の作品、トルーマン・カポーティ著「カメレオンのための音楽」(野坂昭如訳)。

まるで遺作になることを予感しているかのようにこれまでの自分が出版した作品に対する述懐から始まる序文は、カポーティ自身の作品の魅力を自分自身で客観的に称えた名文。編みこまれたそれぞれの短編からは、カポーティがたんなる作家であることを自分に許さず、常にあたらしい表現方法を模索し続けたことを感じることができる名著です。

カポーティが「カメレオンのための音楽」というとき、「カメレオン」という表現が、表現者としてさまざまな手法をもちいた自分自身に対するメタファーなのか、それともカメレオンのように一瞬一瞬で様相を変えてしまう読者を指したメタファーなのか、読みながら考えてみるのも一興です。

カメレオンのための音楽 Book カメレオンのための音楽

著者:トルーマン カポーティ
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年5月15日 (月)

ちょいワル文学再び、または、ぼくらが夜な夜な眠れぬ理由

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夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。彼らはなにをするのか。
夜を現存させているのだ。(モーリス・ブランショ)
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眠れない夜のしじまに、暗闇を見つめるとき、ときどき思うことがある。もしかして魂が、活動を始めたのではないかと。もしかしたら、眠れないのではなくて、ついさっきまで眠っていたのではないかと。

ブランショの美しい言葉の引用からはじまるアントニオ・タブッキの「インド夜想曲」は、本人が前書きで記しているように「不眠の本」です。また、単に「不眠の本」であるだけでなく、「旅の本」でもあります。

さて、タブッキは親切にも書き出しのつづく文章ですかさず謎めいたその小説の定義についてヒントを与えてくれています。

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不眠はこの本を書いた人間に属し、旅行は旅をした人間に属している。
---アントニオ・タブッキ「インド夜想曲」まえがきより

多くのフリーターが末永く「フリーター」でいることを望んでいるわけではないように、程度の差こそあれ、多くの大人達が白昼の舞台で繰り広げられる社会的活動(仕事)に従事することを心から望み、「これこそが本当の自分だ」と考えているわけではないはずです。そんな風に思えるような生活を送っているのはほんの一握りの人だけだし、もしかしたらそれだって単なる思い込みってことは充分に考えられます。

たとえば、酔っぱらい相手に注文を承りながら、嬉しくもないのに「はい、よろこんでー」と言うとき、たとえばお世話になんかなっていないクライアントへのメールに「お世話になっています」という一文を添えるとき、あなたの魂は眠ってしまっていて、身体だけが旅していると考えることはできないだろうか。

あなたの身体は、昼の間「魂」を眠らせたまま旅をしてきて、夜になって「身体」が睡眠を欲し始めると、「魂」がのそのそとあくびなんかしながら、起き上がってくる。そして、「身体」が掴みかけてた眠りの糸口を、遠い彼方の洞窟のようなところに追いやってしまって、暗闇の中に明晰さとともに置き去りにしてしまうのだとしたら。

物語は、失踪した友人を探しながら、幻想に満ちたインドを逍遥する主人公のお話です。主人公は、失踪した友人が残したわずかな手がかりをもとに、様々な人をたずね、また偶然の出会いを重ねながら、ゆっくりと目的地へと近づいて(導かれて)いくというもの。探しているといっても、探している理由も明らかではなくて、深刻さは希薄。どこかで話をはぐらかされたような謎めいたストーリの進め方は、夢遊病者の旅行記(まさに本のテーマのごとく)を読んでいるかのよう。ただし、その謎めいたストーリに秘められた警句的な意味、とくに物語の最後にかけてはとてもストレート。

終止インドの生温さを感じさせるような文章からは、インドの混沌と喧噪がひしひしと伝わってくる。また、通り過ぎる景色や人々は、まるで読みながらうとうとしたときに見た夢なのではないだろうか?というような錯覚に陥ってしまうほどに輪郭の曖昧な描写が続き、本当に幻想のインド(もちろん夜)に迷い込んでしまったよう気になってきます。(須賀敦子さんの信じられないくらいの名訳もあって)

我々は、主人公の視界を襲うインドの白昼とインドの夜想を通り抜けて、「眠れない」という宿命が正常なことだと思い当たります。いや、眠れない夜の自分と、眠ったような昼の自分、そのどちらもが自分なのだということに気付かされるというべきか。

不眠を不運と嘆くことはないかもしれない。ほら、眠れない夜こそ、魂の活動時間なのかも。

合コンでの用例:
「夜更かしが罪だとしたら、ボクらは共犯関係だね。」

甘い夜になること請け合いです。(たぶん)

昼間は魂を眠らせておいて、夜更かしにそなえたいという人。夜更かしのおともはこちら。「夜を現存させるという罪」を犯す、ちょいワル文学



Book
インド夜想曲

著者:アントニオ タブッキ

販売元:白水社

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2006年5月11日 (木)

ぼくは勉強ができない

もし、まだあたながこの本を読んだことがないというのなら、できるかぎり迅速かつすみやかに本屋に走って買ってきた方がいいと思う本がある。山田詠美著、青春小説の名著中の名著「ぼくは勉強ができない」。(こんな言い方が傲慢だということは承知しつつも、それ以上の情熱を込めて。)

村上龍のエッセイ集「すべての男は消耗品である」の記念すべき第一集の角川文庫版の解説で、山田詠美は、村上龍のことを「これでもか」とばかりに辛辣にこきおろしている。ずいぶん前に読んで、いまは手元にもないので、詳しくは覚えていないのだけれど、とにかく「村上龍ごときにそんなこと言われたくない」というような憤慨が、文章全体から滲み出た、解説としては不適当とはいえ、とても面白い文章だったことを記憶している。

その後、山田詠美はだれかとの対談集でも、本気でその時期の村上龍のことを酷評してた(これもなんっていう本だったか忘れてしまった)ので、とにかくそれほどまでに村上龍による「消耗品」発言が気に障ったようである。(ちなみにその後なかよく和解してる。)

たしかに「すべての男は消耗品である」という言葉は、使い方が難しい。これを女性が発した台詞ととるならば、根拠のない傲慢さがもたらすある種の「ユーモア」として受け止めることができそうだが、これを村上龍のような男性がいうと「ユーモア」ではなく、自嘲気味の「アイロニー」と受け止められかねない。

あらゆるユーモアは、原則的に笑いに帰依(苦々しさをともなったとしても)するが、アイロニーとなるとよくて冷笑、大半は不快が伴うものである。たしかにアイロニーとして「消耗品」発言を読み取ろうものならば、そこには、男尊女卑を逆説的に肯定しているような印象が含まれてしまいます。とはいっても悪意のない村上龍は、その後もめげずに「悪意のないアイロニー」として、同名のタイトルのエッセイ集を長く刊行し続けたので、いまとなってはもはやそれが愚かしいタイトルとは受け止められていないけれど。

はじめてその解説を読んだときは、それまで「うんうん」なんて頷きながら、素直に読み進めていただけに、自分まで怒られているような気分になったものです。それで、「おぉ、なんだこの女」と思った記憶がある。(まだ、10代だった。)

山田詠美の「ぼくは勉強ができない」は、一般的に「勉強ができない」ということの美徳を、男子校生である主人公「秀美」の成長の過程を通してユーモラスかつ爽快に描き出した作品として、広く読まれています。そのような読み方をして、最高に素晴らしい青春小説です。

ただし、そういった単なる青春小説に収斂するかというと、それだけでないのが山田詠美のすごいところ。

本書の最後に挿話された「眠れる分度器」の終盤、秀美の母である仁子は、秀美が毛嫌いする担任の先生をお酒に誘うシーンがある。きっとこれからも変る可能性は薄いであろう、この担任の男性と一緒にお酒を飲むシーンをつくることで、山田詠美は、この小説内の大きな流れに小さなくさびを打ちこんでいる。

山田詠美は、単に「勉強ができるだけの男」も見捨てずに男子として取り扱ってくれるのである。すくなくとも「消耗品」なんかではないと。

思うに、山田詠美が村上龍に対して怒ったのは、まさにこの視点なのではないかと思う。「あなたが消耗品っていうのは勝手だけど、わたしが愛している人たち(男性)と一緒にしないで!」と。そう考えると、山田詠美は大人の男達の情操教育を果たさんと崇高な使命を担った作家といえそう。

ただし、ここで男性諸君が注意しなければならないのは、山田詠美に男子として扱われるということには「誇らしさ」以上の、恐怖心に似た「プレッシャー」があるという点だ。そう、まさに山田詠美に消耗品にされてしまうのではないだろうか・・・というような。

合コンでの用例:
「すべての女は消耗品なんだよ」

ぶんなぐられます。

さて、読んでないなんてモグリ。

ぼくは勉強ができない
Book ぼくは勉強ができない

著者:山田 詠美

販売元:新潮社

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2006年5月 8日 (月)

Are you Japanese?

まる一日頭を洗わないと猛烈に頭皮が痒くなってくるのですが、ときどき製薬会社が「24時間たつと自然に頭が痒くなるような成分」をシャンプーに配合してるんじゃないかと訝りたくなる。どこのシャンプーを使っても症状は大体似たようなものなので、もともと人間の身体はそういう風にできてると考えられないことはないけど、もしかしたら大手メーカー各社が、暗黙のうちに結託してるのかも?と、背後にうごめく企業の闇を想像したりして苦笑い。もちろん馬鹿げた妄想だとは思いつつも。

シャンプーに潜む陰謀説はともかくとして、女性のスキンケアもしかり、もっというとシャワーだってそう。毎日それをすることが当たり前になってしまっている行為について、「毎日それをおこなう」という自明の事実について、その必然性を考えることというのは、普段生活をしている限りではあまりない。

でも、考えないだけで「洗髪」という行為が発生し、それが週一回から、週二回になって、その内一日おきになって、ついには毎日することが当たり前になった瞬間があるわけで、シャワーについても同様。

フィツジェラルド「グレートギャツビー」の中で、ギャツビーの葬儀の後、ギャツビーのお父さんがみつけた若き日のギャツビーの行動予定表には「一日おきに入浴」とあるくらいだから(アメリカのことだけど)、シャワー(入浴)という行為も今のように、毎日入って当たり前だったわけではなくて、いつかどこかのタイミングで「当たり前」になったのだと思います。

さて、毎日シャワーを浴びるのが当然であるのとおなじくらい、というかそれ以上に当たり前のこととして、我々は自分たちが「日本人」だということや「日本」という国に生きていることを知っています。しかしながら、これらについても「日本」とか「日本人」という枠組みがいつかどこかで出来上がって「自明」になったのであって、生まれついたときから先天的に「日本列島に住んでるから、ボク(わたし)は日本人」なんて、知っていたわけではありません。

さて、では我々は、いつから「日本」という国に住む「日本人」になったのか?

社会学者小熊英二は、我々が普段から当たり前に甘受している途方もない自明性について、大洋に沈んだ沈没船を引き上げるトレジャーダイビングのごとく、膨大な量の文献に潜水し、継起となった重要な記述を引き上げ、その自明性がいつ、だれの、どのような意図によって生み出されたのか?ということを白日のもとにさらします。

そしてその途方もない宝探し的分析によって、我々は、我々の「当たり前」が、歴史的にみれば「ついいましがた」なんらかの(当然のごとく政治的な)意図によって生み出されていることを知ります。

もしそのニーチェからフーコーを経由した「系譜学」的な手法の取り方に疑問を持たれる方がいるとしても、それを違う方向から立証するのは、きっと難しいに違いない。それほどまでに途方もない参考文献の量。

その量ゆえの説得力(否定不可能性)。

合コンでの用例:
「シャンプーをしないと頭が痒くなるのは、製薬会社の陰謀なんじゃないかと思うんだよね。」

面白い人と思われるか、誇大妄想狂と思われるかはいちかばちかだけれども。

我々がいつから日本人なのか知りたい人はこちら。



単一民族神話の起源?「日本人」の自画像の系譜

Book
単一民族神話の起源?「日本人」の自画像の系譜

著者:小熊 英二

販売元:新曜社

Amazon.co.jpで詳細を確認する

うーん、高いし難しそう!という方は100%Orange の装丁がかわいいこちら。
小熊英二の仕事が垣間みれます。(フリガナつきで分かりやすい。)



日本という国

Book
日本という国

著者:小熊 英二

販売元:理論社

Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2006年5月 4日 (木)

日本生まれ、資本主義育ち

iPod の新製品
ウイニングイレヴン*1の新製品
カメラメーカのフィルムからの撤退*2

これらのニュースを聴くたびにすかさず迷わず、獲物を見つけて急降下するハゲタカのごとくとびつく(購入する)友人がいる。周囲のみんなは彼のことを「資本主義の申し子」とか「物欲界の貴公子」とか「買いすぎくん」などと噂する。そこには「嫉妬」と「羨望」と「侮蔑」と、幾ばくかの「敬意」(その経済力!)が含まれている。

とはいっても、iPod もiMac も、コンタックスもPS2 でさえ持っている自分には、ホントはそんな風に彼のことを揶揄することはできないし、みんなだって「ヴィトンの新作」とか「倖田來未の新曲」とか「日産の新車」とかが出るたびに「欲しい」か、もしくは「買っちゃう」わけだから、つまり言ってしまえば、みんな「資本主義の申し子」なのであって、もっというと「資本主義教」の敬虔なる信徒なのである。

温故知新ならぬ温新知新。

「新しきをあたため、新しきを買う。」この唯一にして、絶大なる教典に従い、今日も無為な消費活動に明け暮れるのである。

シカゴという街を舞台に、通り過ぎゆく人々や荒廃した景色を通して、いまはなくなってしまったものたちへの哀愁や、シカゴの街そのものに対する郷愁を綴ったスチュアート・ダイベックの「シカゴ育ち」。*3

短編と短編との合間に差し挟まれた1、2ページのショートショートの中に「なくしたもの」という作品がある。子供のなくしものが番組が終わる前までに必ず見つかってしまうという子供向けのラジオ番組を聴きながら、主人公は、なくしたものについて考える。

---シカゴ育ち「なくしたもの」より
誰かが何かをずっと欲しがっていたなら、自分のものになったことはなくても、やっぱりそれはその誰かのものじゃないだろうか。そしてそれは、なくしたものじゃないだろうか?
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自分が「欲しい」と思っているものが、以前所有していたものかもしれないと思うことができれば、「欲しい」という欲望の本質を見ること可能かもしれない。また買わなければならないほど、それを欲しっているのか?と。

---シカゴ育ち「夜鷹」より
女を失って、彼は知った。永遠とは、何かがあることではなく、ないことなのだ。
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欲しいという気持ちが購入という行為でしか充足され得ないのは、こういうことです。たんに「ない」という状況に我慢ができないだけ。

合コンでの用例:
「ヴィトンもBMW も、なくしちゃったんだよね。」
(遠い目)

うそつき呼ばわりされないように注意が必要です。

ゴールデンウィークを利用して仙台の友人のところに遊びに来ています。来る途中、高速道路の大渋滞に巻き込まれ、到着するのに9時間(普段なら5時間半くらい)もかかりました。「1日を無駄にした。」という感覚に陥りながらも、そういう風に思うこと自体が、資本主義教の教えに端を発っしているのだと思ったりしました。

通り過ぎ行く景色をみつめることの大切さを再発見したい人はこちら。(図書館でもいいけど)

シカゴ育ち Book シカゴ育ち

著者:柴田 元幸,スチュアート・ダイベック
販売元:白水社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

*1 年に二回は新製品がリリースされるコナミの大人気サッカーゲーム
*2 デジタルカメラの影響で各カメラメーカはフィルムからの撤退を余儀なくされている
*3 例によって柴田元幸訳

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2006年5月 1日 (月)

鍵のかかった部屋

自殺願望があると言って憚らない知人の女性と一緒にお酒を飲んでいて、我慢ならないので、とりあえず死ぬ前に一本電話をかけてくれとお願いしたら、「ヤダ」と言下に断られてしまったことがある。10代のときのことだ。

まだ生きてるその女の子がこれから先もお酒を飲んだ席で、そんなデリカシーのない発言を口走ろうものなら、綾小路きみまろのごとく率先してサディスティックに罵ってやろうと思っている。思ってはいるが、それにしても「死ぬ前に電話してくれ」なんてお願いは傲慢だったと反省している。

それまでは、だれかが「もうダメだ」と思う寸前に「コイツの厄介になってみよう」なんて思ってもらえるような生き方がしたいと思っていたのだけれど、そんなの毎日それなりになんとかやりくりしている側の言い分なのかもしれないと気づいたのだ。

そう「もうダメだ」なんて思ってるくらいなんだから、ほとんど周囲の諸関係に救いの手を求めることは不可能であって、「助けられる」なんて考えが大間違い。もっというともつれた諸関係の一因に自分が関与しているかもしれない。となると、「とりあえず電話ちょうだい」なんて、単なるポーズ、自己満足に過ぎない。効き目があるとすれば、キャバクラ嬢を口説くときくらいだと思いあたる。

うん、そう、モテたかったの。

というわけで、とにかく人を「助ける」なんて、そんな行為は恐れ多いことだとそれ以来思うようになった。人は基本的に「助けてもらいたい」じゃなくて、「役に立ちたい」んだよね。

鍵を持っていなければ、部屋には入れません。もしたまたま鍵が開いてたとしても、勝手に入り込むことが許されているわけではなくて、ちゃんとノックして用件を伝えて、許しを得てはじめて靴を脱いで部屋に上がれる。それが礼儀というもの。

「自分はだれかを助けたいんだ」なんていう漠然とした想いは、ドアを開ける権利が相手に委ねられていることを知らないが故の傲慢です。いつでもドアが開いてて、いつでも相手が困ってると思ったら大間違いだし、ややこしい話になってしまう。「困ってる人を助けようと思って家に勝手に上がったんです!」なんて。

そういう勘違いが劣等感とか抑圧を生むんじゃないかと思う。

合コンでの用例:
「君の心の鍵。さっき鍵屋で合鍵つくってきちゃった。」

さて、女の子を思いっきり引かせるというのもひとつの手口です。

とはいっても、鍵のかかった部屋には入りこむ余地すらないのだということ、というかその前にドアを見つけることの困難を思い知るにはこの一冊。ポール・オースター著「鍵のかかった部屋」(柴田元幸訳)

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