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2006年4月 4日 (火)

ボクらがどうしようもなくオクテな理由(試論)

「柴田元幸の訳書にハズれなし」といわれることがあるけれど、あれはホントだと思う。

読む本読む本、ホントにハズれたためしがない。あまりにもよすぎるから、もしかして原文が素晴らしいのではなくて、柴田元幸の書く日本語が素晴らしいのではなかろうかという気さえしてくる。小説家の「作者買い」は、作品の質によってハズれることも往々にしてあるけれど、この人の「翻訳者買い」は、恐ろしくミス率が低いと思う次第である。

そんなことをいうと、スティーヴン・ミルハウザーやポール・オースターに怒られるかもしれない。しれないけれど、読者だけでなくて、彼らにしてみても柴田元幸に翻訳してもらえて(それ以外のだれかではなくて)「よかったな」と思っているに違いない。

少なくとも、彼らとの数少ないインタビューを読む限りでは、おおっぴらにそう表現してはいるわけではないにせよ、一種の安心感のようなものを読み取れます。

もちろん、日本人には柴田元幸以外にも素晴らしい翻訳者が(素晴らしい小説家とその数を比べようものならば天と地ほどの比率で)多数いるから、ポール・オースターもレベッカ・ブラウンも、翻訳者が柴田元幸でないからといって絶望することはないにせよである。それくらい柴田元幸の翻訳には、魔法的な特別な力があるように思うわけである。

さて、とはいってみたものの今日は柴田元幸を絶賛しようと思っているわけではないのです。そうではなくて、日本人の翻訳能力の高さについて触れたいと思います。

柴田元幸とその他のすぐれた翻訳家の方々のおかげもあって、最近は翻訳小説だけでなくて、翻訳に関する技術書や、翻訳者別のインタビュー本なんかも発売されいていて翻訳文学がひっそりとつつましくブームを迎えて(たぶん)いるようです。翻訳文学の素晴らしさに気づいている、ごく少数の文学愛好者の方々にしてみれば、日本人の翻訳能力というのが非常に優れた技術だということについて、みんな激しく賛同してくれるところではないかと思います。

なぜ日本人は、翻訳能力に長けているのか?

というようなことを考えていて、述語が最後にくるという日本語の言語表現の特性のようなものに思い当たりました。言語学はほとんど通じていないので、たんなる仮説なのですが、日本人は遠い遠い昔から、人づてに聴いた話を面白おかしくもったいつけて話すような文化があったのではないか?ということです。

ヨーロッパのように国境が隣あっている国では「ゆっくり話してたら隣国が攻めてきた」というような、切羽詰った歴史の局面がきっとあっただろうことを考えても、日本という地理的特殊性がそのような特性を助長させたとかいっても、なんとなく説得力があります。(とかいうと、おなじ文法の韓国語については説明がつきませんが、日本をのぞけば東端だったということでなんとかご理解いただければ幸いです。)

結果ではなくプロセスに美学を見出すというのは、言語に限らず茶道なんかにも言えることですよね。岡倉天心先生も言っていました。

とはいっても、そういう文化が喪失の危機を免れているか?というと、これも一考に値しますが、それは次の機会に。本稿も試論なので、もっと改定補稿をすすめる予定です。

合コンでの用例:

「ボクが、どうしようもなくオクテなのは、旧石器時代に端を発してる問題なんだよ。」

さて、日本のすばらしい翻訳者をお知りになられたい方にはこちら。「翻訳者買い」という新しい世界がひろがること請け合いです。

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