« ちょいワル文学 | トップページ | 労働してるからってそれがそんなに正しいとは思えないわ »

2006年4月24日 (月)

エビちゃんがいけすかない理由

そのタイトルが意味するようにように、本サイトは自らが主体的に「いけすかない」存在になることを目指したサイトです。自ら「いけすかない」存在になるというこの行為を指して「イケスカナイズ」と命名したわけですが、いけすかない化するというのは別に「斜に構える」ことでも「アイロニーな態度」でもなくて、単にその「いけすかない」という言葉を発する、発語者の背後にある「嫉妬」や「羨望」といった感情を浮き彫りにすることであり、それはだれのものでもなく発語者自身の、もう一つの負の側面であることを意識させるということが狙いです。

注意が必要なのは「いけすかない」という言葉が、単に「腹立たしい」とか「ムカつく」とか「怒髪天」(死語)といったような絶滅思想的に対象を根絶やしにしてしまえば事足りてしまうような暴力的な感情ではないとうことです。「いけすかない」という感情には、前述したような対象に対する「嫉妬」や「羨望」、そして真っ向勝負しても敵わなそうというようなある種の「卑屈」さのようなものが伴います。つまり「いけすかない」の対象は、日本代表の宮本のような類いまれなキャプテンシーやら、「うん、もう笑ってくれてるだけでいい」とか(主に男性に)言わせちゃうエビちゃんの美貌のように、簡単には手に入れられないナニかを所有しているという条件が必要です。

それは、「ムカつくからぶんなぐって解決してやろう」というような勧善懲悪的な二元論の延長線上にあるものではなくて、「宮本?プレイはいいけどねぇ」(サッカー選手だぜ!?)とか、「エビちゃん?うーん、あと3年くらいじゃない?」(いま輝いてんだもんいいじゃん!)といったような、複雑に絡まっていて他人にはうまく説明できそうにないけど、とにかく「オレ(ワタシ)はなんかムカムカするんだ。」(趣味判断)という種類の感情です。

しかも誤解してはいけないのはこの、単に「手に入れられない」から「いけすかない」のではないということです。

この感情が巧妙なのは、主体となる自分が「手に入れられない」という事実を決定的に思い知る直前、挫折する前の段階の感情だということです。主体性の敗北が眼前に迫る状況において、「この問題とは真剣に対峙しないように!」と無意識下の自我が自己防衛のために発する心的プロセスであり、精神の安定をもとめたタナトスによる防衛機能なのです。

さて、わかりづらく冗長な説明でしたが、要約すると「いけすかない」という態度の決定は、「ムカつく」とか「腹立たしい」といったような対象に対する本質的な嫌悪そのものなのではなく、自己を客観的に見つめ直すという作業からの韜晦のための、自己防衛のための心的作用だということになると思います。

対象に対して「いけすかない」という感情を抱くとき、すかさず対象と自分との間にある客観的な関係について問い直し、見つめ直すこと、そうしたとき、自己ははじめて実存的な飛躍(命懸けの飛躍)を果たすことが可能になるのだと思います。それは「いけすかない」という感情が発露されたときにのみ有効です。さらにそれは不可逆的な運動であり、その運動こそが、主体的な人間(大人)になるための唯一の運動ではないかと思う次第です。

率先してイケスカナイズされることによって、他者を主体的な他者として扱うということ、まさにカント的視点に根ざした態度です。

合コンでの用例:
「とりあえず、二次会オレんちね。」(実存的な飛躍)

「いけすかない」という感情を抱く自己にこそステレオタイプが潜んでいること、それらの不適当な感情こそが社会の弊害なのだということ、それらを洒脱な視点と明晰な筆致で浮き彫りにしてみせたのは80年前。スコット・フィッツジェラルド著「グレートギャツビー」。読んでいる最中も、読み終えて本棚に並んでも、読んだという事実でさえ!最強の「いけすかなさ」。その「いけすかない」という感情の背後に、あなたの飛躍が鍵が隠れてることは保証します。

グレート・ギャツビー
Book グレート・ギャツビー

著者:野崎 孝,フィツジェラルド

販売元:新潮社

Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« ちょいワル文学 | トップページ | 労働してるからってそれがそんなに正しいとは思えないわ »