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2006年4月28日 (金)

労働してるからってそれがそんなに正しいとは思えないわ

格差という問題を考えるとき、前提として成立しているのは「経済的に豊かな組」と「経済的に貧しい組」という定義です。よって格差を問題視し「格差をなくしましょう」という場合、「勝ち組(豊か)」というグループと、「負け組(貧しい)」というグループを定義して、そのグループ間の距離を縮める方法について模索します。(便宜的に「勝ち組」と「負け組」という言葉で表します。)

この「勝ち組」と「負け組」という関係に見落としがちなのは、その構成が「勝ち組」の側から「お前らは負け組じゃぁ!」とか言われて発生しているわけではなくて、むしろ「いや、うちら負け組なんでもう少し優遇してくださいよ。」といったような「負け組」側からの訴求によるという点です。

そもそも「勝ち組」に所属する側は、マリー・アントワネットの「パンが食べられないならケーキを食べればいいのに。」発言よろしく、もともとそれが普通の状態なのであって、「負け組」とされるグループが「負けました」と白旗をあげたときに初めて「勝利」した側にいることに気付くことになるのです。

つまり、「勝ち」とか「負け」という関係を強化しているのは「勝ち」側の押しつけなのではなくて、「負け」と定義されている側の敗北意識そのもの、それは経済的に豊かではないという事実が、すなわち「敗北」を意味する社会体制の容認に他なりません。

といっても「敗北している側の自己責任だ」というようなことが言いたいわけではありません。思うのは、もしかしたら「経済的な豊かさ」というのは「過剰な豊かさ」でしかないという点、それとその所与がすべからく「労働」に依存しているという点です。そこに一考の余地があるように思うのです。

1960年代後半、全世界的な学生達による革命機運の中で、当時のフランスの若者達に圧倒的な支持を受けた青春小説の名著ボリス・ヴィアン「日々の泡(うたかたの日々)」では、「労働」は忌避すべきものとして描かれています。

ヒロインのクロエは物語中盤、肺に睡蓮が咲くという謎の病気を患いますが、その病気の原因は「労働」を目撃してしまったことです。かわいくて才気あふれるクロエが病気にかかる寸前、主人公コランと交わす会話は「労働」を自明のこととして「勝ち組」に所属しようとする意思を抱える(意識してようとしてまいと)現代の若者達への辛辣な警句として受け取ることができます。

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クロエ:
労働してるからってそれがそんなに正しいとは思えないわ

コラン:
労働は正しいと聞かされているんだ。一般には正しいと考えられているし。でも、実際はだれもそんな風には思ってない。習慣でやってるんだ。正確に言えば、そんなこと考えないぐらいだよ。 − 中略 − 彼らは労働せずに生きられる機械をこしらえる労働をしないで生きるために労働しているっていことなんだ。

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だから労働するなって言いたい訳でもありません。

必要なのは「労働」を揚棄し「勝ち - 負け」の関係性そのものを解体しようという試みです。「勝利」という結果に満足を感じない、さらに「負け組」に甘んじる勇気がある。そういう人達が繋がれるコミュニティがあれば、そもそも「格差」というのはきっと生まれないような気がします。

それを標榜できるなら、スタート地点が「働きたくない」というのでも、とりあえずはいいと思う次第です。

そう、「今朝も仕事いくのヤダなぁ。」だけのことかも。

合コンでの用例:

「勝ち負けの関係から一歩抜きん出た存在なんだよね。オレ。」

さて、コランとクロエ(付け加えるならば、ダメなシックとかわいそうなアリーズ)の迎える恋愛の結末について語ってしまうのはヤボ。いままさに労働に関与しようとしている方も、すでに労働してしまっている方も、「労働なんてしたくねー。」と率直に思っていたあの頃のことを思いだしつつ、うたかたの日々を振り返ってみては。

日々の泡

Book

日々の泡

著者:ボリス ヴィアン

販売元:新潮社

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2006年4月24日 (月)

エビちゃんがいけすかない理由

そのタイトルが意味するようにように、本サイトは自らが主体的に「いけすかない」存在になることを目指したサイトです。自ら「いけすかない」存在になるというこの行為を指して「イケスカナイズ」と命名したわけですが、いけすかない化するというのは別に「斜に構える」ことでも「アイロニーな態度」でもなくて、単にその「いけすかない」という言葉を発する、発語者の背後にある「嫉妬」や「羨望」といった感情を浮き彫りにすることであり、それはだれのものでもなく発語者自身の、もう一つの負の側面であることを意識させるということが狙いです。

注意が必要なのは「いけすかない」という言葉が、単に「腹立たしい」とか「ムカつく」とか「怒髪天」(死語)といったような絶滅思想的に対象を根絶やしにしてしまえば事足りてしまうような暴力的な感情ではないとうことです。「いけすかない」という感情には、前述したような対象に対する「嫉妬」や「羨望」、そして真っ向勝負しても敵わなそうというようなある種の「卑屈」さのようなものが伴います。つまり「いけすかない」の対象は、日本代表の宮本のような類いまれなキャプテンシーやら、「うん、もう笑ってくれてるだけでいい」とか(主に男性に)言わせちゃうエビちゃんの美貌のように、簡単には手に入れられないナニかを所有しているという条件が必要です。

それは、「ムカつくからぶんなぐって解決してやろう」というような勧善懲悪的な二元論の延長線上にあるものではなくて、「宮本?プレイはいいけどねぇ」(サッカー選手だぜ!?)とか、「エビちゃん?うーん、あと3年くらいじゃない?」(いま輝いてんだもんいいじゃん!)といったような、複雑に絡まっていて他人にはうまく説明できそうにないけど、とにかく「オレ(ワタシ)はなんかムカムカするんだ。」(趣味判断)という種類の感情です。

しかも誤解してはいけないのはこの、単に「手に入れられない」から「いけすかない」のではないということです。

この感情が巧妙なのは、主体となる自分が「手に入れられない」という事実を決定的に思い知る直前、挫折する前の段階の感情だということです。主体性の敗北が眼前に迫る状況において、「この問題とは真剣に対峙しないように!」と無意識下の自我が自己防衛のために発する心的プロセスであり、精神の安定をもとめたタナトスによる防衛機能なのです。

さて、わかりづらく冗長な説明でしたが、要約すると「いけすかない」という態度の決定は、「ムカつく」とか「腹立たしい」といったような対象に対する本質的な嫌悪そのものなのではなく、自己を客観的に見つめ直すという作業からの韜晦のための、自己防衛のための心的作用だということになると思います。

対象に対して「いけすかない」という感情を抱くとき、すかさず対象と自分との間にある客観的な関係について問い直し、見つめ直すこと、そうしたとき、自己ははじめて実存的な飛躍(命懸けの飛躍)を果たすことが可能になるのだと思います。それは「いけすかない」という感情が発露されたときにのみ有効です。さらにそれは不可逆的な運動であり、その運動こそが、主体的な人間(大人)になるための唯一の運動ではないかと思う次第です。

率先してイケスカナイズされることによって、他者を主体的な他者として扱うということ、まさにカント的視点に根ざした態度です。

合コンでの用例:
「とりあえず、二次会オレんちね。」(実存的な飛躍)

「いけすかない」という感情を抱く自己にこそステレオタイプが潜んでいること、それらの不適当な感情こそが社会の弊害なのだということ、それらを洒脱な視点と明晰な筆致で浮き彫りにしてみせたのは80年前。スコット・フィッツジェラルド著「グレートギャツビー」。読んでいる最中も、読み終えて本棚に並んでも、読んだという事実でさえ!最強の「いけすかなさ」。その「いけすかない」という感情の背後に、あなたの飛躍が鍵が隠れてることは保証します。

グレート・ギャツビー
Book グレート・ギャツビー

著者:野崎 孝,フィツジェラルド

販売元:新潮社

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2006年4月20日 (木)

ちょいワル文学

モテを考察するということになると、なんといってもキーワードは「ちょいワル」である。「ちょいワル」が「ちょいモテ」。いや、もとい「かなりモテ」である。

で、「ちょいワル」といえばイタリア人パンツェッタ・ジローラモということになるのだけれど、そう、もっと言うとキーワードはイタリア人。イタリア人にはちょいワルが多い。

さて、そういう意味でいうと今日紹介するこの本も、「ちょいワル」ということになるだろう。なにせイタリア人の小説家が書いている。アントニオ・タブッキ著「供述によるとペレイラは」。いうなれば「ちょいワル文学」である。

まず、タイトルからして「ちょいワル」である。

これが「容疑者ペレイラは」となると、「かなりワル文学」ということになってしまう。「被疑者ペレイラは」でも、少し悪い感じが抜けない。火のないところに煙は立たない理論が働いてしまうせいである。ゆえに、ちょいワルの条件をクリア。

ページを開くと、のっけから供述スタイルで始まる。

供述によるとペレイラは、小さい夕刊専門の新聞紙の文芸欄を担当している中年のジャーナリストということだ。さらに、詳しく供述を聞くと、肥満、髪の毛頼りない、持病持ちということらしい。肥満でハゲはじまっているという点、この辺りも「ちょい身体悪い」、略して「ちょいワル」である。

さらに、供述によるとペレイラは、奥さんを病気で亡くして以来、すっかり元気をなくしてしまい慢性的な倦怠を感じているということである。この場合は「ちょいダル」ということになるが、一字違いはご愛嬌だ。

さらに、供述によるとペレイラは、若くて聡明な女性に翻弄されて、政治的な活動に足を踏み入れつつあるいい加減(ちょいワル)な青年に過去の自分を投影して感情移入してしまうという始末。もはや判断力まで「ちょいワル」である。

もう、これだけ書き連ねれば、いうまでもなく「ちょいワル文学」といってさしつかえなさそうだが、まだある。

一番気になるのが、このペレイラがどういった状況で、だれに対して供述しているのか?ということがまったくもって不明瞭であるということだ。もはや、小説の構造自体も「ちょいワル」なのである。

さて、これら上述した諸状況から鑑みるに、この作品が「ちょいワル文学」以外のなにものでもないことは、これを読んでくれた皆様におかれましても、なかんずく同意していただけるところではないかと思う次第である。

合コンでの用例:
「最近は、ちょいワル文学かな。」(悪ぶって)

なお、イタリア人の作家タブッキが書いたと説明したけれど、小説の舞台はファシズムが台頭せんとする時代のポルトガルです。なので「ちょいポル」ってことにも・・・。って、もういいか。

小説の本筋は、過去にとらわれた中年の男性が、活動的ではあるが無知で無思慮な若者に出会い、そこに若かりし頃の自己を投影することで、過去によってスポイルされてしまった現在との決別(魂の開放)を実現していく物語と捉えるのが正当でしょうか。(暴力的に要約するとすればですが)

「供述」という特殊な叙述スタイルが取り入れられているのも、ひとつにはテーマとなっている「魂(未来)」と「肉体(過去)」との対峙において、「肉体」から開放された「魂」が、客観的に過去を物語っていると考えることもできそうです。とはいっても、訳者あとがきの須賀敦子(もちろん名訳)の解説によると、書かれた背景には既得権益にまみれたイタリアの政治の頽廃に対するサタイアであるというようなことも書かれてたので、その辺は読み手の想像力にお任せしたい。

ただし、大人になるにつれて体制に対して従順になりつつある我々の精神へのささやかな風刺であるということは間違いなさそう。ちょいワルも、かなりワルも、本当の大人になりたければこちら。




供述によるとペレイラは…

Book
供述によるとペレイラは…

著者:アントニオ タブッキ

販売元:白水社

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2006年4月19日 (水)

国家の品格、日の名残り。

いろんなところで「もっかい武士道とかいうのはバカげてる」みたいな話を聴いていて、それは確かにバカげてるなぁと思っていたのだけれど、ちょうど「品格」について書かれた小説のことを紹介しようと思っていたので、一応読んで見た。藤原正彦著「国家の品格」。(立ち読み)

数学者として大成しないことの反動で「論理じゃなくて武士道」みたいなことが書いてるのか(そういう言及を各所で読んだ気がする)と思いきや、「論理も大切だけど武士道」というようなことを言っていて、しかももっと要約すると、「情緒を養うために本を読め」「数学も勉強しろ」「戦争はするな」というようなまともなことが書かれてた。警句的なんだけど、ページ数が足りないせいで説教臭い。

読んでいて思ったのが、著者の藤原正彦は、単なる「新書」のつもりでテキトーに書いたんじゃないかということ。そしたらなぜだか「すっごい売れちゃった」。「ボクがモテないのは、まわりの女性の目がおかしいから」なんて、国家について、しかもその「品格」について書いた文章で、そんなことを言うくらいだから、相当軽いノリで書いたんじゃないだろうかと思う次第なのです。 

読み終えた感想は、別に買ってあげてもよかったかな・・・というような反省。でも、正直2回は読まないので買わない。(すいません)「ベストセラー作家になったら突然モテはじめた」みたいな顛末について本を書いてくれたら、それはきっと買わせていただこうと思います。

さて、オススメの本命は、おなじく「品格」について考える一冊。カズオ・イシグロ著「日の名残り」について。

由緒あるお城の由緒ある執事として「品格」を追求した日々のメモワール。

さすが執事。話が脱線するにもいちいちくどくどと、うざったい説明を読者に断った上で、「ある日の父について」なんか語り始めたりする。(しかもなかなか止まんない)それで、その冗長な語り口ながらも、主人公がこれまでの執事の歴史や過日の出来事を振り返りながら、「品格」の本質に迫ろうとする試みだということに気付く。

それで「品格」について考えながら読み進めると、「品格」の追求の書とみせかけておいて、過日の淡くそしてほろ苦いロマンスの思い出にたどり着くというヅッコケぐあい。(確信犯)

「新しい主人がアメリカの方だから最近はラジオでユーモアについて勉強してる」なんていう告白まで飛び出す。さすが執事。まるで成績優秀な高校生が、人並みにモテたいからと、真剣にホットドッグプレス(休刊)を読むようなかわいらしさを垣間見る。

ただし、そこはかとないユーモアの裏に「品格の追求」が「応答=責任」という他者への追従型の行為であること、またその盲目的な追従が「自ら選択する」という判断力を失わせてしまったという自己批判を潜ませます。

以前には間違いなく存在していた「品格」が、現代においては成立しないことへの警鐘であり、さらに残念ながらそれ(品格)を取り戻すことが解決策ではないことを伝えようとしているとも言えます。

少なくとも「国家の品格を取り戻しましょう」なんて安易にはお話できないことだけは確か。

合コンでの用例:
「ホットドッグプレスが休刊しちゃったから、最近はドストエフスキーを読んでるよ。」

さて、「国家の品格」を読んで品格を取り戻したいと思われた方も、武士道なんてダサいという方も。こちらです。「品格を取り戻す」なんて大義じゃなくて、「ラジオで主人の笑わせ方を勉強する。」みたいな遠回りが滑稽で微笑ましい。「いまどき文学でモテ方を勉強する。」っていう本サイトのコンセプトにぴったりです。土屋政雄さんも名訳。

日の名残り Book 日の名残り

著者:カズオ イシグロ
販売元:早川書房
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2006年4月18日 (火)

アメリカの自家撞着、あるいは「宮殿泥棒」

アメリカの小説家が、今日もアクチュアルな作品を書き続けているのには、ひとつに「戦争をしている国に住んでる」という当事者意識のようなものが、あるからではないかと思います。小説家が小説を書く動機に、これほど正統かつ真っ当な問題というのはないような気がします。

そういう意味でいうと、日本人の作家における「文学」の困難というのがあるはずですが、それについてはまた今度。今日は、アメリカの作家イーサン・ケイニンの短編集「宮殿泥棒」について。

いつかは自分が所属する会計事務所の共同経営者になることを望む堅実な会計士が、目の前のビッグチャンスを目前にして、「ソックスを盗む」という暴挙によって、急遽その話をなかったこととしてしまう中編「会計士」。

面白いのは、主人公が論理的な行動によってチャンスをなかったこととしているのではなく、ほぼ衝動的に「ソックスを盗む」(あこがれのメジャーリーガーのものという設定)という理不尽な行為によって、商談をなかったことせざるをえない状況を作ってしまっていることです。物語の最後は、主人公が、その衝動(盗み)について考えながら、自分が夢見ていたような共同経営者になれそうにないことを思い、これまでの人生で手にしたものと、手にしなかったものについて思いを巡らせながら話を終えます。

これは論理(理性)に衝動が先行している点において、自我の問題と言えるような気がします。主人公は「共同経営者になりたい」=「堅実に生きたい」というような理想(周囲の期待なども含む)を、それなりに体現してきたにもかかわらず、一瞬の衝動によってそれを拒否します。これは、理由や論理というものを超えたところで、「理想」に近づくことを拒否したととることができます。

アメリカは「民主主義を求めたら戦争してた」という自家撞着を抱えていますが、この作品の場合は、理由もなく、さらに後悔までしつつも「理想を求めない」という選択をしています。つまり、衝動的に戦争を回避したということです。

おなじことが表題作の「宮殿泥棒」にも言えます。

長らく教育に携わってきた歴史の高校教師が、いつかは校長の座につきたいというささやかな理想を抱きながら、権力のある政治家の息子として転校してきた愚鈍な生徒との交流の失敗(これもうまくやり通すこと可能だった)を経て、最終的に同僚との権力争いに破れるという話です。こっちも自分で失敗の種を蒔いておいて、そのことに後悔しているというシニカルな終わり方をしますが、自ら「失敗」を選択しているという点からみて、上述した「会計士」と同じ終わり方です。

以前は擁護していた同僚が急に態度を変えて校長の座についたことを指して「宮殿泥棒」というタイトルを冠していますが、権力を奪取する立場について考えた場合、宮殿を盗んだのはもちろん「アメリカ」的なものを表象しているなにかであることは間違いありません。

合コンでの用例:
「健全な生き方っていうのを追い求めてたら、この合コンに辿り着いたんだよ。」

さて、紹介した作品の他にも2編収録されていて、それらもオススメです。「アメリカの自家撞着」といううがった見方をしなくても、充分に楽しめるのは、例によって柴田元幸訳だから?ちなみに、訳者あとがきの柴田元幸は全然違うことを言っているので、そちらもどうぞ。

宮殿泥棒
Book 宮殿泥棒

著者:イーサン ケイニン

販売元:文藝春秋

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2006年4月16日 (日)

喪失について

村上春樹の小説は「喪失」に関する小説だという見方が一般的です。朝、目が覚めると、大切な奥さんとか彼女が突如として消え去っているという話です。もちろん「なんだよ、めんどくせーなー、まぁ、そのうち戻ってくんだろ。」とはならずに、遠くはギリシャくんだりまで探しにいったりする。読み手としては「自分の大切な人がいなくなったらどうすべきだ?」みたいな、問題を抱えながら主人公に感情移入したりなんかして、読み進むにつれて「喪失感」というものについて考え始めるというのが、大方の筋という気がします。

といっても、たいがいの長編では、その「喪失感」に達するまでに要しているページ数はかなりのもので、そういう意味でいうと「諦めの悪い」小説です。

エッセイストの須賀敦子もおなじく「喪失」をテーマに筆をとった作家でしたが、この人の場合は「喪失」と自分との因果関係について、はっきりと自覚を持っていて、うつつに自分をおいてけぼりにして、勝手に「霧の向こう側」にいってしまった友人や大切な人たちに対して、愛してしまったことの責任を全うしようとする潔さのようなものを感じます。

いなくなってしまった人たちを「霧の向こう側にいった」なんて言えてしまう優しい感性と、そんな霧の向こう側と向き合いながらひたむきに編まれた言葉達は、私たちの日常がいかに「喪失」によって成立しているかを思い知らされます。

二人の作品を読みながら「喪失」というテーマについて考えたとき、一方に諦めの悪さを、一方には潔さを感じながらも、どちらにも同等の「誠実」さを読み取ることが可能なのは、喪失の背後に「愛してしまったことの後悔との対峙」のようなものがあるからではないか?と思います。それはときとして、諦めが悪く、ときとして、いさぎよくあるべきことがらのように思います。

だれかを愛してしまったときの屈託のない笑顔のうちに、いくばくかの「苦笑い」が潜んでいることを感じるとき、それは未来の喪失の予感なのではないかと思う。そして、それが大人になるということなんだと思う。

合コンでの用例:
「人の歴史っていうのはさ、基本的においてけぼりの歴史なんだぜ。」
(孤独について語るとき。憂いを帯びた調子で。)

村上春樹は知ってるけど、須賀敦子は知らないという人がいたらこちら。若くて元気で情緒のない男子(そういうのを「子供」という)が読んで素晴らしいと思えるかどうかはわからないけれど。

地図のない道
Book 地図のない道

著者:須賀 敦子

販売元:新潮社

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2006年4月14日 (金)

抑圧からの回避として <本サイトの利用方法 その2>

毎回「合コンでの用例:」なんて書いてるから、本サイトが全面的にメンズの味方だと思って、読むのを途中で放棄された女性の方がいらっしゃらなかったか心配です。

さて、本サイトは、男性のためのサイトなのではなく、大人のインテリジェンスを身につけることを目的とした綜合合コン対策ポータルサイト(ほとんど形骸化)です。ゆえに、男性のためのサイトというだけでなくて、女性のためのサイトということも可能です。

つまり本サイトは、あなたの隣で「結局、気合いと根性と男根でしょ。」とかいう、ポークビッツ((C)伊藤ハム)並みに矮小、かつ下品な知性を振りかざす殿方達の、浅はかな知性をあざ笑い「ふーん、つまりポストコロニアリズム的時代にあって、いまなおコロニアリズム的政策を押し進めるっていう、前時代的なお話を拝聴できるっていうことですね?」と、エスプリの香りを漂わせた大人の発言で周囲の空気を凍結せしめ、ひいては無駄な話をそれ以上させないという、文化((C)石田純一)的省エネおよび文化的温暖化阻止を達成せんとするものです。

こういうことも言えるかもしれません。

 私の周りには10人の男がいます。
 そのうち9人はどうしようもなくバカだが、
 残る1人も大した男ではない。
 (作者不明)

ちなみに、先日知人の女の子と喫茶店で話してたら、突如「なんか、ダンコンの世代が一斉退職するから、求人が増えるらしいじゃん。」と言われました。私は、よく考えて、事実まったくその通りだなということに思いあたり「うん、そうらしいね。」と返答しました。

どうやら「ダンカイの世代」という言葉は、男達の身勝手かつ時代錯誤的な思い込みで、どうやら女性達のあいだでは、いつの間にやら「ダンコンの世代」にすり替わっていたようです。なるほど。勉強になります。

ちなみに、決して「塊」と「魂」の読み方を間違っていたわけではないことを、1981年生まれの彼女の名誉に誓って言っておきたいと思います。本サイトは「ダンコンの世代」に抑圧されないための、女性のためのサイトでもあるのです。

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2006年4月13日 (木)

あなたに主体性なんてない

今日も、服従する主体性について書かねばなるまい。

さて、ニーチェなみに悲壮感全開で書き出してみました。本当は、ビールの飲み過ぎで酔っぱらっているだけです。

酔っぱらって権威についてなにごとかを書こうという試みが、すでに権力の傘下に下ったが故の所作であるとかなんとか言われたら、否定しません。主体性はボクにも皆無です。でも、いいんです、それで!!なんせ、現代の若者は、究極的に被搾取者でありながら、究極的に楽観主義なんだもん。

ちなみに、ボクの友人に「あー、ドモホルンリンクルの雫を落ちるの見届ける人になりてーな」と、本気で切望しながらネットワークエンジニアとして、時給3500円くらいもらっているヤツがいます。さて、どちらが被搾取的か?酔っぱらっているので、よくわかりません。

よくわからないので、本題に入ろうと思います。

先日、クライアントのコールセンターに往訪したときの話です。

現代のコールセンター(いまはコンタクトセンターというのだとか)というのは、見たことも聴いたこともないようなシステムが完備されていて、たとえばセンターに問合せのあったすべての通話を録音するシステム(分析やクレーム対応時に利用するらしい)だとか、通知された電話番号から顧客情報を呼び出すCTI(なんの略か忘れました)と呼ばれるシステムやら、顧客対応からマーケティング活動までのCRM(カスタマーリレーションシップマネージメント)を一手に引き受けるSFA(セールスフォースオートメーション)システムとか、とにかくカユいところに手が届いた、偏執狂的顧客至上主義が成立しています。(見ていて「肩が凝るのは日本人だけ」という話を思い出しました。)

そう、そんで、その中にとっても興味深いシステムを発見したのです。

コールセンターの対応中のメンバーが、いまなにをしているのか?というのを一望できるセンタービューシステムというシステムです。どういうシステムかというと、当日の目標値に対しセンター全体でどのくらいの件数を処理しているか?とか、個人別に通話時間が長くなっている人間がいないか?とか、休憩時間は適切にとられているか?などを監視することのできるシステムなのだそうです。このシステムは、もちろん電話をとっている人間の席にあるのではなく、SVと呼ばれる人間の席にだけ、鎮座ましましているというわけである。

さて、これはもう、まさにあの「パノプティコン」にほかなりません。

監視されている人間には、監視されているかどうかの事実性を判断することはできないが、見られている可能性については常に意識せざるを得ないこのシステムは、ジェレミー・ベンサムによって考案され近代資本主義の基本モデルとして機能した(そのことを明らかににしたのはミシェル・フーコーですが)「パノプティコン」と、寸分違わぬ機能性を保持し、そしてまさにそのように機能しているのです。

その前に、あまりに偏執狂的かつ神がかり的なインフラを目の当たりにしているものだから、突如目の前に現れた「パノプティコン」的装置に、ニーチェからフーコーに引き継がれた予見を思い出して、強い目眩を感じてしまいました。

でも、もしかしたら、イタリア人と昼休みに飲んだビールのせいかも。

合コンでの用例:
「見られると興奮するっていうのは、むしろ正しく学校教育を受けて来たからに違いないから胸を張るべきだぜ。」(下ネタにだって知性はつきものです)

さて、「見られたい」という願望が、「パノプティンコン」的情操教育の産物によるものかどうかは、正直不明ですが、「パノプティコン」について理解を深めたいという方は、先日紹介したミシェル・フーコーの「監獄の誕生」を。その前に入門書という方は、こちら。今日は二冊。(前述の「肩が凝るのは日本人だけ」というエピソードは内田樹に詳しい。)

寝ながら学べる構造主義
Book 寝ながら学べる構造主義

著者:内田 樹

販売元:文藝春秋

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フーコー入門
Book フーコー入門

著者:中山 元

販売元:筑摩書房

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2006年4月11日 (火)

うんこに思想はない

たしかに、と思った。
うんうん、と深く頷いた。

ボクはいま27歳、18歳の時期にこの本を読んだ。
村上龍「69」の話。

18歳という、人生の過渡期にこの本に出逢えたことを、ボクはいまでも感謝している。できれば、もう少し早く出会いたかったと思わないでもないけれど。

みんなの爆笑の明確な対象として、ときには謂れのない嘲笑や憎悪を一身に浴びながらも、少年たちの清い人格形成のために、必要悪として機能する孤高の存在。

その爆発的な「笑い」のポテンシャルは、その無思想性によるものだったことを、白日のもとにさらしたのは、だれあろう村上龍だった。

資本主義によってスポイルされゆく同時代人達の知性に対し、積極的に警鐘を鳴らすことを自らの使命とした村上龍の、鋭利なまでに鋭い作家としての才能(鋭い嗅覚!?)がなせる技である。

「うんこの無思想性」

これは、高校生が社会にでるまでに、必ず知っておくべき必須の知性である。さもないと、とりあえず「うんこ」と言っておけば笑わせることができた、それまでの周囲の環境と、新生活とのギャップに気づかずに「うんこ」「うんこ」と連呼し、周囲の失笑を買うばかりである。

そう、影で「うんこマン」と揶揄されることは請け合いだ。

合コンでの用例:
「うんこって言えば笑わせられるなんて、思ってないし、そんなに子供じみてないんだよ、オレは。」(トイレから帰ってきて着席する際に)

さて、掲題のうんこのくだりは、実際、学生時代に電車の中でこの本を読んでいて真剣に笑いをこらえるのに苦労した箇所だけれど、それは別として、大人になることと、「楽しむ」という行為は、基本的に相反するものではないのだということを、率直に感じることができる素晴らしき青春小説。

69(シクスティナイン) Book 69(シクスティナイン)

著者:村上 龍
販売元:集英社
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2006年4月 6日 (木)

少年ジャンプ、近代文学。

日本の若者の情操教育に少年ジャンプが与えている影響を考えることがあるのだけれど、たとえばこんなことを思う。

「森鴎外も石川啄木も読んだことのある20代」
「ドラゴンボールや、ワンピースを読んだことのある20代」

かけてもいいけど、前者の方が圧倒的に少ないはず。10代にいたっては、たぶん字もよめないんじゃないかと思う。

「えーと、い、いしかわぶたもく??」

いずれにせよ現代の若者が、いろんな問題を「かめはめ波」で解決してきたことは推して知れます。

さて、柄谷行人は、定本集の刊行を終えるにあたり、その長いあとがきのようなものとして「近代文学の終わり」という作品を上梓し、近代文学が終焉したことを告げました。(随分前からそのことは言っていたけれど)

「文学が終わった」というような書き方をすると、そういう文脈をしらない人にひどく誤解をされそうだから、柄谷行人の言葉を引用します。

--- Karatani Wrote
それは近代文学の後に、たとえばポストモダン文学あるということではないし、また、文学が一切なくなってしまうということでもありません。私が話したいのは、近代において文学が特殊な意味を与えられていて、だからこそ特殊な重要性、特殊な価値があったということ、そして、それがもうなくなってしまったということなのです。
---

柄谷行人がいうように、夏目漱石や森鴎外のような作家に代表される近代文学が、日本の価値観(コンテクスト)の形成に大きく寄与したであろうことは、いまさらいうまでもないことです(若い人にはいわないとわかりません)が、じゃぁ、そのあと現代文学がはじまったのか?というと、上述のとおりそんなのは全然始まってません。

いまや、文学そのものの「重要性」とか「価値」みたいなものは、ほとんど皆無といっていいし、なんなら概念そのものが消失しかけてる。少なくとも文学が現代の若者の問題を解決してくれるような存在でないことは、
同時代の周囲の人たちを見ていても、激しく感じるところです。

じゃぁ、近代文学が終わってなにが来たのか?

そうです。「ドラゴンボール」です。

社会にでるといたるところに「オッス!オラ悟空」的な人間をみることが多い。いっけん「この人は悟空じゃないよ」みたいな人がいても、よくよくみたらドラゴンボールに反動形成されてたりとかして、アンチ悟空のくせに「オッス!オラIT社長」(名刺あり)とか言ってる。

かめはめ波をいかにしてよけるか?または跳ね返すか?

資本主義を揚棄するためには、そこからはじめる必要がありそうです。

合コンでの用例:

「近代文学が終焉して、次に到来したのは少年ジャンプなんだよ。」

近代文学が終焉したのちにドラゴンボールが来たという論理は、若干の飛躍を感じられる方も少なくないかもしれないですが、もし飛躍してたとしたらそれは舞空術によるものです。柄谷行人のオススメはこちら。

第1巻 日本近代文学の起源 増補改訂版 Book 第1巻 日本近代文学の起源 増補改訂版

著者:柄谷 行人
販売元:岩波書店
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2006年4月 4日 (火)

ボクらがどうしようもなくオクテな理由(試論)

「柴田元幸の訳書にハズれなし」といわれることがあるけれど、あれはホントだと思う。

読む本読む本、ホントにハズれたためしがない。あまりにもよすぎるから、もしかして原文が素晴らしいのではなくて、柴田元幸の書く日本語が素晴らしいのではなかろうかという気さえしてくる。小説家の「作者買い」は、作品の質によってハズれることも往々にしてあるけれど、この人の「翻訳者買い」は、恐ろしくミス率が低いと思う次第である。

そんなことをいうと、スティーヴン・ミルハウザーやポール・オースターに怒られるかもしれない。しれないけれど、読者だけでなくて、彼らにしてみても柴田元幸に翻訳してもらえて(それ以外のだれかではなくて)「よかったな」と思っているに違いない。

少なくとも、彼らとの数少ないインタビューを読む限りでは、おおっぴらにそう表現してはいるわけではないにせよ、一種の安心感のようなものを読み取れます。

もちろん、日本人には柴田元幸以外にも素晴らしい翻訳者が(素晴らしい小説家とその数を比べようものならば天と地ほどの比率で)多数いるから、ポール・オースターもレベッカ・ブラウンも、翻訳者が柴田元幸でないからといって絶望することはないにせよである。それくらい柴田元幸の翻訳には、魔法的な特別な力があるように思うわけである。

さて、とはいってみたものの今日は柴田元幸を絶賛しようと思っているわけではないのです。そうではなくて、日本人の翻訳能力の高さについて触れたいと思います。

柴田元幸とその他のすぐれた翻訳家の方々のおかげもあって、最近は翻訳小説だけでなくて、翻訳に関する技術書や、翻訳者別のインタビュー本なんかも発売されいていて翻訳文学がひっそりとつつましくブームを迎えて(たぶん)いるようです。翻訳文学の素晴らしさに気づいている、ごく少数の文学愛好者の方々にしてみれば、日本人の翻訳能力というのが非常に優れた技術だということについて、みんな激しく賛同してくれるところではないかと思います。

なぜ日本人は、翻訳能力に長けているのか?

というようなことを考えていて、述語が最後にくるという日本語の言語表現の特性のようなものに思い当たりました。言語学はほとんど通じていないので、たんなる仮説なのですが、日本人は遠い遠い昔から、人づてに聴いた話を面白おかしくもったいつけて話すような文化があったのではないか?ということです。

ヨーロッパのように国境が隣あっている国では「ゆっくり話してたら隣国が攻めてきた」というような、切羽詰った歴史の局面がきっとあっただろうことを考えても、日本という地理的特殊性がそのような特性を助長させたとかいっても、なんとなく説得力があります。(とかいうと、おなじ文法の韓国語については説明がつきませんが、日本をのぞけば東端だったということでなんとかご理解いただければ幸いです。)

結果ではなくプロセスに美学を見出すというのは、言語に限らず茶道なんかにも言えることですよね。岡倉天心先生も言っていました。

とはいっても、そういう文化が喪失の危機を免れているか?というと、これも一考に値しますが、それは次の機会に。本稿も試論なので、もっと改定補稿をすすめる予定です。

合コンでの用例:

「ボクが、どうしようもなくオクテなのは、旧石器時代に端を発してる問題なんだよ。」

さて、日本のすばらしい翻訳者をお知りになられたい方にはこちら。「翻訳者買い」という新しい世界がひろがること請け合いです。

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2006年4月 3日 (月)

簡単に手に入らないシールド

数日前のコラムでたまたま「簡単に手に入るものに価値なんてない」という村上龍の言葉を引用していたのですが、先日出版された「シールド」という作品に、全く同じような表現がありました。

「あなたはなぜ、それらを大切だと思うの?」という問いに、主人公の男が「簡単には手に入らないから」と答えるシーンがあって、「タイムリーだなぁ」なんて思いながら読み終えたのですが、村上龍という作家は昔からあんまりテーマを変えずに書き続ける作家なので、まぁ全然不思議なことではなくて、むしろ「またか」という感じでしょうか。

ちなみに、私はその「またか」というのを、ある種の作家が持つ「しょうがなさ」というようなものとして、肯定的にとらえているのですが、その話は長くなりそうなので、また次の機会に書くとして、「シールド」に話を戻そうと思います。

社会や身の回りの環境が押し付けてくる価値観から身を守る手段として、「シールド」なるものを手にしなくてはならないという警句的なこの絵本(?)は、シールドという比喩を使用して、功利主義(か、もしくは拝金主義)を土台にした価値形成を子供達に強いる学校や大人達の言葉との対峙を迫ります。村上龍は、あとがきで「シールド」は、様々な種類のものが存在し浮遊していて、どのシールドがいいシールドで、どのシールドが悪いシールドだというようなことを言いたい訳ではいというということを言っています。

ちなみに、ここでいう「シールド」というのは、ほとんど「権威」のようなものと考えて間違いなさそうです。村上龍は、権威の傘下に下るということではなくて、様々な権威があってそれぞれの「権威」の依ってたつ根拠を見極める力が、本質的な意味で「シールド」として機能するのだというようなことを言いたいのだと思います。「簡単に手に入らないシールド」と、「権威としてのシールド」を、区別できるようになること。それこそが本質的な意味で「シールド」だということ。あえていうと「シールドのシールド」のようなものですが、単に「シールド」というだけでは、表現が足りないのでは?と、その点だけ少し気になりました。

とはいっても、13歳のハローワークが発売されたときに13歳だった子供達は、いまは16歳、大半がこの4月から高校生活に入るはず。もしや、タイミングをみたリリース?などと邪推しつつ、先輩という権威や、成績という権威から、身を守るすべを身につけなければならない若人にしてみれば、大きく参考になる一冊に違いなさそうです。例によって、成人の方々の危機感も煽りまくりです。

合コンでの用例:

「人生には、目の前の悲劇から即刻逃げ出すためのランニング
 シューズが必要なんだよ。」

さて、とはいっても自衛から始めたいという人には、こちらを。

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2006年4月 2日 (日)

日本語という困難とその超克

エッセイのテーマが、基本的に日本と外国の文化の違いに関することなので、読んでいれば外国の人が書いた文章なんだろうな・・・と、文脈から判断できそうだけれど、書かれている日本語からは、おおよそ外国の人が書いた文章とは思えません。この人の書いた本は。

アーサー・ビナードの「日本語ぽこりぽこり」という本の話です。

構成も、修辞も流麗。美文とはかくあるものと、「日本語における美文を再定義した美しい随筆のための見本文」なんて言ったら若干大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、とにかくこの人が書いたようなキレイな日本語を書ける日本人は、何人くらいいるだろうか?と、素朴な疑問。少なくとも職業欄に「作家」と書けるような人であっても、かなり苦戦を強いられそうです。

作品を読んでいて面白いのは、エッセイを通して著者が日本語習得にあたって直面した困難をおもしろおかしく表現している箇所なのですが、ここでは読み手の自分(読者)は「日本語習得の困難」に客観的に日本人として対峙しているということです。「うーん・・・、確かに難しいよなぁ・・・」とか、そんな感じなのですが、状況を複雑にしているのは、その日本語を書いているのが日本人ではないというところです。

つまり、「日本語という困難を超克できずにいる日本人が、日本語という困難を超克した外国人に逢った」とでもいうべき感覚なのです。「オレは、そんな困難とっくに乗り越えてるぜ」という方はさておくとして、普段から日本語という困難に直面しているという現代人の方は、日本語がそれなりに素晴らしいと思えるくらい素晴らしい作品だと思います。

合コンでの用例:

「今日は、ポロリもあるよ。」
(小声で耳元でささやくように)

きっと、うちももあたりをつねられるに違いありません。さて、アーサー・ビナードの作品は、そのエッセイのテーマになっている「文化の違いによる誤解」という分かりやすい文脈とは別に、日本における「翻訳文化の発達」とか「美文の定義」などといった、日本語という言語に関係する諸問題を考察するためのきっかけになるような示唆も含んでいるように思います。あと、「モテ」るために読むなんていうとバチがあたりそうだけど、この人はきっと間違いなく「モテ」てるような気がします。



日本語ぽこりぽこり

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